主体的な機能快の追求
ドイツの心理学者カール・ビューラーが「機能快」ということをいっています。人間にはさまざまな機能が備わっていて、それを発現させること、使うことが快感なのだ、といいます。子どもが歩くのは、歩くのが義務だからではなく、歩くのが快感だからです。子どもがしゃべるのは、しゃべるのが快感だからです。逆に、その機能が発揮されない状態が続くと不満が鬱積し、心身は病むことになります。(渡部昇一『「人間らしさ」の構造』 参照)
仕事でも能力は使用されますが、それはごく一部の能力です。
最近はマニュアル化によって能力の使用が押さえられる傾向にあります。長年培った職人的な能力よりも、誰にでも同じような結果が出せるマニュアルを重視します。熟練労働者をリストラし、安い賃金で雇える若い労働者にマニュアルを与えて、仕事をさせます。そこでは能力の使用が極力抑えられています。とりわけ機械化やIT化とセットになった場合、そこで使用される能力はさらに限定的です。人間はコンピュータの入力係であり、チェック係であり、監視員にすぎません。
スーパー、コンビニ、キオスクなどにはPOSシステムが導入されています。自分でお客さんの傾向を読み取って、仕入れを考える必要はありません。機械に売れた商品のバーコードを読み取らせ、在庫の商品を読み取らせれば、センターのコンピュータが売り上げの傾向を分析して、適切な仕入れを計画します。人間はコンピュータに仕える僕(しもべ)として働けばいいのです。
これは極端な例ですが、現代の労働はこのようなコンピュータの付属品的な役割が増えています。
かつてよくいわれたのは、労働の細分化の問題です。本来ひとまとまりであった労働が分業の効率化のために細分化され、一人が受け持つ仕事が単純作業の繰り返しになってしまい、労働は疎外されて、生きがいが感じられなくなった、といわれました。今ではそれに加えてIT化によってコンピュータの補助的な仕事が増えています。
仕事には難易度の過不足の問題もあります。能力を使うにしても簡単すぎる作業や課題ならば、退屈をもたらします。かといって、むずかしければプレッシャーとなります。高度すぎて解決できないとか、自分のレベルを超えることが要求されれば、強いプレッシャーとなり、ストレスを生みます。(チクセントミハイ氏のフロー理論を参照)
能力を使うにも、それが快と感じられるためには、ほどよいレベルというのがあるのです。それは自分の能力をちょっと上回る程度の難しさです。それがもっとも面白く感じられます。
しかし、仕事の内容がいつも自分の最適なレベルに調整されているわけではありません。往々にして簡単すぎるか難しすぎるかして、労働者に余計なストレスをもたらします。先ほどの「労働者健康状況調査」では、「強い不安、悩み、ストレスがある」の理由として、「仕事の質の問題」をあげている人が30.4%もいました。
自分が関心が持てる仕事につき、ほどよい量の仕事を任され、さらに最適の難易度の仕事を任されるなどと条件がそろうことは滅多にありません。仕事に機能快や生きがいを求めるのは困難な道だということです。
それに対して、趣味・道楽は、自分の能力を使用する自由な活動です。仕事では得られない機能快を好きなだけ、最適な難易度で追求できます。仕事で使われない能力や潜在能力を使って、他者からの強制や制限もなく、自己本位に行えるのが道楽の世界です。
音楽の鑑賞や絵画の鑑賞には享受能力を使用します。スポーツ観戦も読書も同じく、それらを享受する能力が必要です。自ら音楽を作ったり、絵を描いたりするにはさらに創造力が必要ですし、技能の習得も必要です。学問、研究では高い知的能力を使用します。肉体を使った趣味でも同様です。スポーツにはそれにふさわしい身体能力が必要ですし、それなりの知力も必要です。
人間の能力は多様なので各能力に応じて趣味の分野が存在します。同じような能力を使っても、対象により様々な趣味が生まれます。
仕事では得られない機能快の追求、しかも自発的で自由な追求が道楽にはあります。
「人間らしさ」の構造 (1977年) (講談社学術文庫)
渡部 昇一
楽しみの社会学
M. チクセントミハイ Mihaly Csikszentmihalyi 今村 浩明

by G-Tools
仕事でも能力は使用されますが、それはごく一部の能力です。
最近はマニュアル化によって能力の使用が押さえられる傾向にあります。長年培った職人的な能力よりも、誰にでも同じような結果が出せるマニュアルを重視します。熟練労働者をリストラし、安い賃金で雇える若い労働者にマニュアルを与えて、仕事をさせます。そこでは能力の使用が極力抑えられています。とりわけ機械化やIT化とセットになった場合、そこで使用される能力はさらに限定的です。人間はコンピュータの入力係であり、チェック係であり、監視員にすぎません。
スーパー、コンビニ、キオスクなどにはPOSシステムが導入されています。自分でお客さんの傾向を読み取って、仕入れを考える必要はありません。機械に売れた商品のバーコードを読み取らせ、在庫の商品を読み取らせれば、センターのコンピュータが売り上げの傾向を分析して、適切な仕入れを計画します。人間はコンピュータに仕える僕(しもべ)として働けばいいのです。
これは極端な例ですが、現代の労働はこのようなコンピュータの付属品的な役割が増えています。
かつてよくいわれたのは、労働の細分化の問題です。本来ひとまとまりであった労働が分業の効率化のために細分化され、一人が受け持つ仕事が単純作業の繰り返しになってしまい、労働は疎外されて、生きがいが感じられなくなった、といわれました。今ではそれに加えてIT化によってコンピュータの補助的な仕事が増えています。
仕事には難易度の過不足の問題もあります。能力を使うにしても簡単すぎる作業や課題ならば、退屈をもたらします。かといって、むずかしければプレッシャーとなります。高度すぎて解決できないとか、自分のレベルを超えることが要求されれば、強いプレッシャーとなり、ストレスを生みます。(チクセントミハイ氏のフロー理論を参照)
能力を使うにも、それが快と感じられるためには、ほどよいレベルというのがあるのです。それは自分の能力をちょっと上回る程度の難しさです。それがもっとも面白く感じられます。
しかし、仕事の内容がいつも自分の最適なレベルに調整されているわけではありません。往々にして簡単すぎるか難しすぎるかして、労働者に余計なストレスをもたらします。先ほどの「労働者健康状況調査」では、「強い不安、悩み、ストレスがある」の理由として、「仕事の質の問題」をあげている人が30.4%もいました。
自分が関心が持てる仕事につき、ほどよい量の仕事を任され、さらに最適の難易度の仕事を任されるなどと条件がそろうことは滅多にありません。仕事に機能快や生きがいを求めるのは困難な道だということです。
それに対して、趣味・道楽は、自分の能力を使用する自由な活動です。仕事では得られない機能快を好きなだけ、最適な難易度で追求できます。仕事で使われない能力や潜在能力を使って、他者からの強制や制限もなく、自己本位に行えるのが道楽の世界です。
音楽の鑑賞や絵画の鑑賞には享受能力を使用します。スポーツ観戦も読書も同じく、それらを享受する能力が必要です。自ら音楽を作ったり、絵を描いたりするにはさらに創造力が必要ですし、技能の習得も必要です。学問、研究では高い知的能力を使用します。肉体を使った趣味でも同様です。スポーツにはそれにふさわしい身体能力が必要ですし、それなりの知力も必要です。
人間の能力は多様なので各能力に応じて趣味の分野が存在します。同じような能力を使っても、対象により様々な趣味が生まれます。
仕事では得られない機能快の追求、しかも自発的で自由な追求が道楽にはあります。
「人間らしさ」の構造 (1977年) (講談社学術文庫)
渡部 昇一
楽しみの社会学
M. チクセントミハイ Mihaly Csikszentmihalyi 今村 浩明

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