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『夜と霧』 ヴィクトール・E.フランクル、池田香代子訳

夜と霧 新版
池田 香代子
4622039702


 原題は『…それでも生にしかりと言う 心理学者、強制収容所を体験する』

 ずいぶん昔に買った霜山徳爾訳の『夜と霧』は読みにくいし、つまらない解説がついているのでので、手付かずのままにしてありました。今回は新訳となる池田香代子訳で読みました。こちらは変な解説もないし読みやすいです。

 霜山訳は1947年刊の旧版を使っていましたが、池田訳は1977年刊の新版から訳出しています。

 第2次世界大戦下、ユダヤ人精神科医のフランクルはドイツの強制収容所に収容されました。本書は、そこでの体験、とりわけ心理面での人間の変化、人々の反応に着目して書かれています。

 すさまじく過酷な状況にあって人間に訪れるのは、「感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心」でした。後に収容所から開放された後にも喜びに浸ることなく、しばらくは現実感がない状態が続きますが、これをフランクルは離人症と捉えています。感情の消滅や無関心は離人症による現実逃避、現実の回避の現われなのでしょう。

 過酷な状況では内面への逃避も行われます。フランクルは自分の妻を思い浮かべることで慰めを得ました。

 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、私は理解したのだ


 その後、愛を絶賛する文章が続きますが、要するに空想による現実逃避です。フランクルにそういう冷静な表現ができないのは、思想的バイアスがかかっているからです。無理にでも人生に価値を見出そうとする彼の思想の特徴ゆえのバイアスです。

 実際にはフランクルの妻は死んでいました。収容所にいるときにその事実を知らされていたら、こんな空想に浸ることは難しかったに違いありません。そのような反論を予期してフランクルはこう書きます。

 そのとき、あることに思い至った。妻がまだ生きているかどうか、まったくわからないではないか!
 そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のおいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。(略)
 もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。


 妻の死を知らされなかったからこそ言える言葉です。さきほどあなたの妻はガス室で死にましたとでも教えられたら、こんなことは書けるはずもないでしょう。フランクルは「妻はとっくに死んでいると知っていたとしても」と書きましたが、「とっくに」と条件をつける理由は何でしょう。彼はわざと死を知る時間をずらすことで感情的な緩衝地帯を設けているのです。

 もちろんすぐに妻の死を知る可能性はなかったし、実際に知ることもありませんでした。ありていにいえば、「知らぬが仏」なのです。

 もし妻の死をすぐに知らされたのなら、「同じように満たされ」るなんてことはありえません。もしそうであれば、それは精神の異常であり、完全な現実逃避です。この記述を読むだけで、彼の思想的信頼性は大きくゆらぎます。

 (つづく)


それでも人生にイエスと言う 「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション) 夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録 死と愛―実存分析入門 宿命を超えて、自己を超えて
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テーマ : 最近読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

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