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『幸福について』 苦痛と退屈

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
4102033017


 苦痛(困苦)と退屈は『幸福について』の繰り返して出てくる主題です。これはショーペンハウアーの倫理学における基本概念といってもいいでしょう。

 「ごく大雑把に考えてみただけでも、人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈であることが知られるだろう。そのうえ、この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいているのだということが言えよう。」(『幸福について』ショーペンハウアー、橋本文夫訳)

 この問題は外面的と内面的の双方に見られます。まずは外面から生じる苦痛と退屈です。

 「外面的には困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生じる。」(『幸福について』)

 たとえば、貧乏で食事もろくにできない状態であれば、飢餓という苦痛を生じます。暑さ寒さにさらされたり、外界の危険から身を守られない状態なども同様に苦痛です。対して、お金があって十分な食事を得られ、他になに不自由もなければれば、飽食と安全ゆえの退屈を生じます。

 満たされたらそれで満足、問題はないと考えがちですが、これは現実をよく観察していないために生じる錯覚です。満足は長続きしません。人はすぐに退屈します。そして退屈しのぎになるものを求め始めます。

 戦後の日本が復興を終えてみれば、飽食の時代ゆえの大きな退屈と目標喪失を味わったことは記憶に新しいところです。そこで生まれたもののひとつがあのバブル時代のバカ騒ぎでした。

 次に内面に起因する苦痛と退屈の相貌を見てみましょう。

 「苦痛と退屈の内面的すなわち主観的な相反は、両者に対する感受性が精神的能力の大小によって規定され、個々の人間の場合に一方に対する感受性が他方に対する感受性と反比例するという点に基づいている。」(『幸福について』)

 感受性の低い人は精神的に鈍く、内面の空虚が生じます。これこそ退屈の根源だとショーペンハウアーはいいます。

 「この空虚が絶えず外部的な刺激を喘ぎ求め、何者かによって精神と心情とを活動させようとする。したがって何を選ぶかについて気むずかしいことは言わない。一部の人たちの選ぶ娯楽の低級さ、彼らの社交や談話の質、さては例の物見高い野次馬連中を見れば、それが何よりの証拠である。主としてこの内面の空虚から生じるのが、ありとあらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を求める心である。」(『幸福について』)

 どこからがくだらなくて低級なのかはわかりませんが、そういう傾向はなきにしもあらずです。けっこうくだらないお笑い番組を見ることがある自分としては、息抜きにはこれくらいいいでしょうと言い訳をしたい気分です。
 
 逆に感受性の高い人は、精神的に豊かで、それ自身が富であるとショーペンハウアーは考えています。

 「こうした貧困を最も安全に防ぐ道は、内面の富、精神の富である。なぜかといえば精神の富は、それが優秀の域に近づけば近づくほど、退屈のはびこる余地を残さないからである。ところで思想の汲めども尽きぬ活発な動き、内面の世界、外面の世界の千差万別の現象に触れて絶えず新たに湧き起る思想の流動、思想の時々刻々に異なった結合を生み出す能力と、これを生み出さずにはいられない衝動、といったようなことのために、緊張の弛緩した数刻の刹那はともかくとして、優れた頭脳はまったく退屈知らずである。」(『幸福について』)

 レベルが高すぎます。これに当てはまるのはよほどの人でしょう。が、おおむねこういう傾向はあるかもしれません。くだらないものばかり求める人は内面が貧困だからだ、といわれれば、そんな気がします。

 しかし、感受性の高さや優秀な頭脳には落とし穴があります。感受性が高ければ、物事に敏感に反応し、精神的、肉体的どちらの苦痛にたいしても感じやすいものです。優秀な頭脳は想像力が旺盛であり、余計なことを考える悪癖をもたらします。つまり外界から刺激を受けることがかえって苦痛になることがあります。

 「才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように、痛めつけられることのないように努め、安静と時間の余裕とを求める。そのために静かでつつましやかな、しかも誘惑のなるべく少ない生き方を求め、したがって、いわゆる世の常の人間というものに多少近づきになってからは、むしろ隠遁閑居を好み、ことに精神の優れた人であってみれば、いっそ孤独をすら選ぶであろう。それはそのはずだ。人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。」(『幸福について』)

 鴨長明や兼好法師が遁世して、閑居を好んだのも当然というわけです。いささか論理展開の怪しいドミノ理論という感もありますが、ショーペンハウアー自身もこれにあてはまったのでしょう。

 自分で楽しみを見出せる人や追求したいことがある人は馬鹿馬鹿しい暇つぶしなど関心がもてないのは当然でしょうし、他人といれば自分のために時間が使えません。そういう意味では、納得できる主張です。

孤独と人生
Arthur Schopenhauer 金森 誠也
4560019843

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ジャンル : 本・雑誌

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