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『幸福について』 退屈をまぎらすには

 「自然が人間に具備させた能力の元来の使命は周囲から迫ってくる困難と闘うにある。けれども闘いが終われば、もはや用いられなくなった能力をもて余すようになる。そこで今度はその能力を遊びに用いること、すなわち何の目的もなしに用いることが必要になってくる。そうしなければ、たちまち人間の苦悩のもう一つの源泉すなわち退屈の擒(とりこ)になってしまうからだ。」(『幸福について』ショーペンハウアー、橋本文夫訳)

 動物ならば満腹した後は、無駄な体力をつかわないようにします。なるべく動かないようにして、休息を取ります。しかし、人間は違います。長期間の休息には耐えられません。何もすることがなければ退屈でしようがありません。

 そこで多くの人は外出しては人と会い、飲んだり食ったりするわけです。旅行、映画、遊園地、テレビなど退屈をまぎらわすのに、外部的な源泉に頼ることになります。

 「けだし幸福と享楽との外部的な源泉は、いずれもその性質上さっぱり当てにならない不確実なはかないものであって、偶然によって左右されるから、どんな有利な状況にあっても、とかく閉塞(へいそく)しがちなものだといえよう。いや、外部的な源泉はどう考えても、いつも手の届くところにあり合わせるというわけにはいかないから、こうしたことは避けがたい。まして年でも取れば、この種の源泉はまず一つ残らず涸れてしまう。」(『幸福について』)

 外部に頼ろうにもいつも確実に楽しみが得られるわけではありません。求めたものが得られるとは限りませんし、想像とは違うこともしばしばです。以前体験して楽しかったものもやがて飽きてしまいます。人間同士の付き合いはしばしば不愉快な場面もうみだします。

 外部的なものがすべてつまらないと思えませんし、すべて飽きるとも思いませんが、だんだんと刺激に慣れてくると、たいがいのものはたいして面白くないと感じるようになってくるとはいえるでしょう。自分の趣味性が高くなり、好みが複雑になるという享楽の能力の向上が満足できる水準を押し上げてしまうからです。

 ましてや老いが迫ってくれば、楽しみが減るのは当然です。衣食住そして性への欲望が減り、それにともなって享楽への動機が弱まります。若い人と張り合う力もなくなります。

 「人間世界のどこへ行っても、たいしたものは得られない。人間世界には困窮と苦痛が充ち満ちている。おまけに大抵は邪悪が人間世界の支配権を握り、愚昧が大きな発言権をもっているとしたものだ。」

 極端な意見ですが、世界を見れば見るほど、経験すればするほど、そのように思えてきます。

 だらこそ、人間は内部的な源泉により楽しむことができればこれにまさる幸せはないと、ショーペンハウアーはいいます。

 「誰でも自分自身にとっていちばんよいもの、いちばん大事なものは自分自身であり、いちばんよこと、いちばん大事なことをしてくれるのも自分自身である。このいちばんよくて大事なものが多ければ多いほど、したがって享楽の源泉が自分自身の内に得られれば得られるほど、それだけ幸福になる」(『幸福について』)

 そうかもしれませんが、漠然としています。ショーペンハウアーの考える内部的源泉による幸福とはなんでしょう。

 ショーペンハウアーは人間の能力を三つの生理的根本能力に基づくと考えました。享楽の源泉もそれに基づいて三種類あるといいます。次回はそれをみていくことにしましょう。

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
4102033017


退屈論 (シリーズ生きる思想)
小谷野 敦
4335000510


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テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『徒然草』 遁世のススメ

徒然草・方丈記 (学研M文庫)
山崎 正和
4059020516


 兼好法師が遁世の理由と決心を述べる文章があります。ここに書かれていることは理由の一部にすぎないでしょうが、貴重な証言なので引用してみたいと思います。

 引用元は『徒然草・方丈記』(山崎正和訳)です。この本は学研の日本の古典シリーズから文庫化されたものです。さすが山崎正和。文章が読みやすく、わかりやすい現代語訳です。ただし、原文はついていません。(以前紹介した角川のビギナーズクラシックにはこの段はありません)

 「人づきあいの儀礼というものは、どれひとつをとっても、省きがたいものばかりである。世間をないがしろにできないというので、これを欠かさずやろうとしていれば、やりたいことは多く、からだもつらく、心が休まる暇もなくて、一生は雑事の些細な義理に忙殺されて、むなしく終わってしまうであろう。」(第百十二段)

 兼好は仕事上のつきあい、世間の付き合いには相当うんざりしていた様子です。とりわけ雑事に時間を取られることに我慢がならなかったようです。

 注目すべきは「やりたいことは多く、からだもつらく、心が休まる暇もなくて」の部分です。

 兼好の自分のやりたいことを中心に生活を組み立てて、他のことに煩わされるのはいやだったのです。このことのわがままであることも十分承知していましたが、それでも、自分がやりたいことを優先させて生きたいと痛切に感じていました。

 兼好は、体は頑強ではなかったのかもしれません。世の中にはやたら健康で活動的な人がいます。エネルギッシュで疲れを知らない人は、がつがつと欲望を追求して生きています。兼好はそういうタイプの人間ではありません。頭脳派であり文人です。そして、求道者です。とても世間のあれこれに付き合いながら、さらに自分のやりたいことをするだけの体力はありません。

 頑健で元気のいい人たちとの付き合いにも辟易(へきえき)とするところもあったはずです。友人にふさわしくない人として、無病強健な人をあげているのも、そのせいでしょう。

 「友とするのに不適当な人間が、七種類ある。一つには、高貴な人。二つには、若い人。三つには、無病強健な人。四つには、酒好きの人。五つには、勇猛の武士。六つには、嘘をつく人、七つには、欲の深い人」(第百十七段)

 高貴な人や嘘つきはともかくとして、浮かれて騒々しい人や、猛々しく自分を主張するタイプはとにかくいやだったようです。

 このような人たちとの付き合いは当然として、そうでなくても世間とのつきあいは心も休まらないと感じていました。

 好きなこともあまりできずに、疲れるだけのこんな生活をいつまで続ければいいのだろうと、懐疑の念が兼好の心に湧き起こっていたでしょう。

 「古人も、日は暮れて道は遠い。わが生涯はすでにつまずいてばかりだ、といっている。今や、人の世のかかわりあいはすべて捨て去るべきである。信義をも守らず、礼儀をも心にかけないことにしよう。この気持ちの理解できない人は、私をものに狂っているともいうがよい。正気を失い、人情をわきまえないとも思うがよい。そしられても苦しむまいし、逆にまた、ほめられても耳を傾けないことにしよう。」(第百十二段)

 古人も…といっている、とあるのは原文の「日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生(しょう)既に蹉跎(さだ)たり」が唐の時代の書『白居易傳』からの引用であるからです。

 私なりに解釈すると「年をとってしまったのに、やるべきことはたくさん残っている。私はすでに人生の時機を逸してしまった。」という意味になります。

 広辞苑によると蹉跎には「つまづくこと」「ぐずぐずして時機を失うこと」「不遇で志を得ぬさま」の三つの意味がありますが、文章として意味が通るのは二番めです。なぜか広辞苑は三番めの意味で徒然草を例に挙げていますが、この段の前後の関係からは不適切です。もうしわけありませんが、山崎訳も意味が通りません。

 もう時間がないので、すべてのかかわりを捨ててしまうべきときなのです。今までぐずぐずして時機を逸したので、遁世するしかその時間をとりもどす方法はありません。

 それにしても「諸縁を放下すべき時なり」という原文は激しく、印象に残ります。原文を引用しておきましょう。

 「日暮れ、塗遠し。吾が生既に蹉跎たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも守らじ、礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀(そし)るとも苦しまじ。誉(ほ)むとも聞き入じれ。」(第百十二段)

 これほど激烈な文章は、徒然草の他の段には見られません。どうしてもそうせずにはいられなかった兼好の心境が生々しく反映しているに違いありません。普通の生活から隠遁閑居の生活へ切り替えるには、これほどに強い意志が必要なのかもしれません。

 兼好の場合、上皇の死がきっかけで出家したといわれていますが、はっきりしません。他になにかよくないことが起こったのかもしれません。しかし、危機は好機でもあります。どんなきっかけであれ、それは自分にとって諸縁を放下すべき時かもしれません。

テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『スローワーク、はじめました』谷田俊太郎

スローワーク、はじめました。
谷田 俊太郎
4391130610


 会社勤めではない自分らしい仕事を始めた人たちを紹介した一冊です。インタビュー記事が中心となっています。

 第1章は「自分の店を持つ」。

 紹介されているのは、カフェ&ハンドメイド雑貨、フラワーショップ、創作菓子、とんこつラーメン、ライスボールカフェ(おむすび専門店)、古道具屋、雑貨店、アンティークショップなどです。

 どの店もセンスがよくて、自分らしさを出しています。店内の空間そのものに魅力があります。

 きっかけは物件探しだったというのが意外な秘訣かもしれません。ふと目にした賃貸物件が気に入って、お店を始める一歩を踏み出した人の体験がけっこうリアルです。お店のイメージがふくらんで現実味が増すのでしょうか。

 第2章は「好きなシゴトでフリーランス」。

 ウクレレ・ショップ&スクール、占い師、キャラクターデザイン会社、キャラクタービジネス、CGクリエイター、ギフトラッピングコーディネーター、お笑いチャンネル運営、イラストレーターなどです。

 楽器作りってのは職人ぽくて没頭できそうで楽しそうです。工房で作業するってことが男のロマンみたいな感じで憧れます。

 会社の仕事がきっかけだったり、趣味が仕事になったり、学校で学んだりした人が多いようです。

 第3章は「新しいシゴト、新しいスタイル」。

 週末だけの古着屋、知的障害者が働く創作居酒屋、移動式パン屋、自動車の個人教習所、インディーズTシャツ専門店、外国人講師宅での英会話レッスン、活弁士(この人、テレビで何度か見ました)、移動雑貨店などです。

 個性とアイディア勝負の世界です。ビジュアル的によかったのは、移動雑貨の「Zakka MiniMini」。ミニ・クラブマンの黄色のバンが可愛く、絵になっています(本の表紙に使われています)。店主も可愛い女性です。

 最後に森永卓郎氏のインタビューがのっていますが、どうでもいいです。

 この本は、写真(宮沢豪)もいいです。一部しか写っていなくても、店の感じが伝わりますし、オーナーの姿がいい。満足感のあふれる表情が素晴らしいです。

 会社勤め以外にもいろいろな道があるのだなと実感できる良書です。

「好き」をシゴトにした人―WORK FILES 01‐59 屋台カフェのつくりかた ネットではじめる雑貨屋さん 私も持てる。小さくて素敵なネットのお店 手づくり雑貨の売り方手帖 お気に入りの雑貨で作る わたしだけのネットショップを開く本―ショップ開店から運営までのステップバイステップガイド
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テーマ : 独立・開業
ジャンル : ビジネス

『幸福について』 苦痛と退屈

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
4102033017


 苦痛(困苦)と退屈は『幸福について』の繰り返して出てくる主題です。これはショーペンハウアーの倫理学における基本概念といってもいいでしょう。

 「ごく大雑把に考えてみただけでも、人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈であることが知られるだろう。そのうえ、この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいているのだということが言えよう。」(『幸福について』ショーペンハウアー、橋本文夫訳)

 この問題は外面的と内面的の双方に見られます。まずは外面から生じる苦痛と退屈です。

 「外面的には困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生じる。」(『幸福について』)

 たとえば、貧乏で食事もろくにできない状態であれば、飢餓という苦痛を生じます。暑さ寒さにさらされたり、外界の危険から身を守られない状態なども同様に苦痛です。対して、お金があって十分な食事を得られ、他になに不自由もなければれば、飽食と安全ゆえの退屈を生じます。

 満たされたらそれで満足、問題はないと考えがちですが、これは現実をよく観察していないために生じる錯覚です。満足は長続きしません。人はすぐに退屈します。そして退屈しのぎになるものを求め始めます。

 戦後の日本が復興を終えてみれば、飽食の時代ゆえの大きな退屈と目標喪失を味わったことは記憶に新しいところです。そこで生まれたもののひとつがあのバブル時代のバカ騒ぎでした。

 次に内面に起因する苦痛と退屈の相貌を見てみましょう。

 「苦痛と退屈の内面的すなわち主観的な相反は、両者に対する感受性が精神的能力の大小によって規定され、個々の人間の場合に一方に対する感受性が他方に対する感受性と反比例するという点に基づいている。」(『幸福について』)

 感受性の低い人は精神的に鈍く、内面の空虚が生じます。これこそ退屈の根源だとショーペンハウアーはいいます。

 「この空虚が絶えず外部的な刺激を喘ぎ求め、何者かによって精神と心情とを活動させようとする。したがって何を選ぶかについて気むずかしいことは言わない。一部の人たちの選ぶ娯楽の低級さ、彼らの社交や談話の質、さては例の物見高い野次馬連中を見れば、それが何よりの証拠である。主としてこの内面の空虚から生じるのが、ありとあらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を求める心である。」(『幸福について』)

 どこからがくだらなくて低級なのかはわかりませんが、そういう傾向はなきにしもあらずです。けっこうくだらないお笑い番組を見ることがある自分としては、息抜きにはこれくらいいいでしょうと言い訳をしたい気分です。
 
 逆に感受性の高い人は、精神的に豊かで、それ自身が富であるとショーペンハウアーは考えています。

 「こうした貧困を最も安全に防ぐ道は、内面の富、精神の富である。なぜかといえば精神の富は、それが優秀の域に近づけば近づくほど、退屈のはびこる余地を残さないからである。ところで思想の汲めども尽きぬ活発な動き、内面の世界、外面の世界の千差万別の現象に触れて絶えず新たに湧き起る思想の流動、思想の時々刻々に異なった結合を生み出す能力と、これを生み出さずにはいられない衝動、といったようなことのために、緊張の弛緩した数刻の刹那はともかくとして、優れた頭脳はまったく退屈知らずである。」(『幸福について』)

 レベルが高すぎます。これに当てはまるのはよほどの人でしょう。が、おおむねこういう傾向はあるかもしれません。くだらないものばかり求める人は内面が貧困だからだ、といわれれば、そんな気がします。

 しかし、感受性の高さや優秀な頭脳には落とし穴があります。感受性が高ければ、物事に敏感に反応し、精神的、肉体的どちらの苦痛にたいしても感じやすいものです。優秀な頭脳は想像力が旺盛であり、余計なことを考える悪癖をもたらします。つまり外界から刺激を受けることがかえって苦痛になることがあります。

 「才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように、痛めつけられることのないように努め、安静と時間の余裕とを求める。そのために静かでつつましやかな、しかも誘惑のなるべく少ない生き方を求め、したがって、いわゆる世の常の人間というものに多少近づきになってからは、むしろ隠遁閑居を好み、ことに精神の優れた人であってみれば、いっそ孤独をすら選ぶであろう。それはそのはずだ。人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。」(『幸福について』)

 鴨長明や兼好法師が遁世して、閑居を好んだのも当然というわけです。いささか論理展開の怪しいドミノ理論という感もありますが、ショーペンハウアー自身もこれにあてはまったのでしょう。

 自分で楽しみを見出せる人や追求したいことがある人は馬鹿馬鹿しい暇つぶしなど関心がもてないのは当然でしょうし、他人といれば自分のために時間が使えません。そういう意味では、納得できる主張です。

孤独と人生
Arthur Schopenhauer 金森 誠也
4560019843

テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『幸福について』 朗らかさと健康

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
4102033017


 ショーペンハウアーはいくつもの主観的な財宝(幸福に寄与する人のあり方)をあげています。

 「優れた性格と有能な頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康そのもののような頑丈な体格、要するに健全な身体に宿る健全な精神が、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である。」(『幸福について』ショーペンハウアー、橋本文夫訳)

 健全な身体に宿る健全な精神とはこれまたギリシャ的な理想を掲げたものだと思いますが、そうした人間が虚弱な体に陰鬱な性格を宿した人間よりも、幸福を感じやすいことは論を待たないでしょう。

 この後、ショーペンハウアーは意外なことをいいます。自身は厭世的で皮肉屋で陰鬱な性格だったにもかかわらず。

 「さてこういった種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗(ほが)らかさである。」(『幸福について』)

 「陽気な人には常に陽気であるべき原因がある。その原因とは、ほかでもない、彼が陽気だということなのだ。」 (『幸福について』)

 人は気持ちがすぐれないときはなんとかして、気持ちを高揚させようとします。ウツでいるのは苦しいので、休んだり、音楽を聴いたり、気晴らしをしたりして、なんとか陽気でありたいと思います。ウツ状態では何も楽しめません。朗らかであること、陽気であることは、楽しめる準備ができている、楽しめる状態にあるといってもいいでしょう。

 いえ、朗らかであれば、それよりさらに進んですでに楽しい状態にあるのです。何もしなくても、なんとなく快適です。

 「直接、現在において幸福を与えるものは朗らかさ以外にないのだから、朗らかさばかりはいわば幸福の正真正銘の実体、幸福の正貨であって、他のいっさいのものと同じような単なる兌換券(だかんけん)ではない。」(『幸福について』)

 朗らかさを幸福の実体とまでいってよいものかと疑問に思いますが、楽しい気持ちになるために人がいろいろなことをするという意味では、朗らかさは目的であり、その他は手段であることが多いでしょう。

 ちなみに兌換券とは正貨に換えられる引換券のことです。外国人居住者や旅行者が外貨と両替する兌換券というのがありますが、ここではむしろ金貨や銀貨と交換ができる紙幣、つまり兌換紙幣というニュアンスではないでしょうか。

 朗らかさこそは金貨であり、他のいろいろなもの、富やら名声やらつまらない娯楽やらは金貨と交換できる兌換紙幣であり、所詮は紙切れにすぎない、というのでしょう。

 「ところで朗らかさにとって富ほど役に立たぬものはなく、健康ほど有益なものはない。」(『幸福について』)

 富が基本的な欲望を満たすことに役に立つにしても、すでに朗らかであるときに、富の果たす役割はとても少ないものです。それにたいして、健康が害われていれば、朗らかさや陽気さは失われてしまいます。健康こそが、朗らかさの基礎を提供します。

 そこでショーペンハウアーは健康法を簡潔に語ります。

 「無茶苦茶な無軌道ぶりや、激烈不快な感情の発動や、極端な、ないしはあまりに持続的な精神の緊張などをいっさい避け、毎日二時間ずつ屋外で活発な運動をし、冷水浴を大いにおこない、その他類似の養生法を励行する。日々適当な運動をしなければ、健康を維持することができない。」(『幸福について』)

 冷水浴はともかくとして、ここに書いてあることは現代の医学から見ても妥当な健康法です。肉体的な節制と平常心の維持。長時間の緊張を避け、リラックスすること。そして毎日の運動。これに栄養に関する配慮が加われば、ほぼ完璧です。

 こうした健康法の上に朗らかな性格を築けば、それ自身がもっとも大きな財宝となります。ですから、健康の価値をショーペンハウアーはとても高く見積もっています。

 しかし、直接的な幸福感、快楽の享受という点では、健康は大きな意味を持ちますが、自分の生活への評価からくる幸福感への影響という点では、健康の重要性は少し落ちます。今まで私が幸福に関する書籍を読んで集めた知見ではそうなっています。

 幸福といっても今現在感じる快適さと生活への満足度はやはり違います。健康が大きな意味を持つのはむしろ前者に対してです。このことは一応頭に入れておきましょう。そうでないと、健康でなければ不幸という単純な図式化をしてしまいます。

 とはいえ、快適でいたいのは当然です。そのために健康でありたいのも当然でしょう。次のショーペンハウアーの言葉は肝に銘じておきたいものです。

 「およそ愚行中の最大の愚行は、何事のためにもせよ、自己の健康を犠牲にすることである。利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のために、健康を犠牲にすることである。むしろ健康よりもいっさいを軽く見なければならない。」(『幸福について』)

笑うショーペンハウアー
ラルフ・ヴィーナー
4560024006

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『幸福について』 富者と精神の貧困

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
4102033017


 経済的に豊かになっても、幸福感が増すのは最初のうちで、やがて経済的な豊かさがましても幸福感は増えなくなります。こうした幸福のパラドックスはこのブログの記事でも述べたとおりです。

 このことをショーペンハウアーは知っていました。

 「富といいうるほどの富、すなわち有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。金もちにも不幸な思いをしている人が多いのはそのためである。」(『幸福について』ショーペンハウアー、橋本文夫訳)

 ショーペンハウアーが考えたその理由が彼らしくてふるっています。富ができることは「現実の自然な欲望を満足させる」ことくらいだから、というのです。

 自然な欲望とは生存のための基本的な必要ということでしょう。たとえば衣食住がその中心となります。もちろんそれらは生きていくうえで重要であるし、不足すれば死んでしまうでしょう。ですからもし自然の欲望が満たせないかもしれないと予想されれば、生存の不安を感じ、安穏と暮らすことはできません。

 逆に、自然な欲望はある程度満たされてしまえば、それ以上は幸福感への影響はなくなってしまいます。飢えを満たせば、飢えはなくなります。それ以上食べようとしても苦痛なだけです。自然な欲望には限度があります。

 一方、ある程度以上の富があっても、お金では満たせない「人のあり方」、とりわけ精神的な享楽の能力が不足していれば、その人は不幸になるとショーペンハウアーは考えました。

 「なぜ不幸な思いをするかというと、本当の精神的な教養がなく、知識もなく、したがって精神的な仕事をなしうる基礎となるような何らかの興味を持ち合わせいないからだ。」(『幸福について』)

 自然な欲望を満たした人間は、退屈します。その退屈を埋めるのはもっと食べることではありません。なぜなら、自然な欲望は満たした上にさらに満たそうと思っても、苦痛しか感じないからです。食欲ならば、時間をあけて空腹を待つしかないでしょう。あるいは他の欲望を順番に満たしていくことになりますが、富がありそれらの欲望を容易に満たせれば満たせるほど、すぐに退屈がやってきます。

 そうした退屈な生活から脱するにはショーペンハウアーのいうとおり、別の享楽が必要になります。変化に富み、持続的な享楽である精神的な享楽があればいいのですが、お金があってもそうした能力のない人にはそれは得られません。彼らはそれを埋め合わそうとして、別のさまざまな享楽を得ようと奔走します。

 「内面の空虚、意識の稀薄、精神の貧困が、彼らを駆って社交界に走らせるが、さてこの社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。類は友を呼ぶとしたものなのだ。そうして集団的に娯楽や慰安をあさる。娯楽や慰安も、はじめは感応的な享楽に、各種の遊興に、これを求めるが、あげくの果てには淫蕩にこれを求めるようになる。」(『幸福について』)

 こうして心に虚無を抱えたままの浪費的生活がうまれます。

 「金もちに生まれてきた長男殿が莫大な遺産をあっという間に使いきってしまうことがよくあるが、こうした手のつけようもない乱費の原因は、事実、今言ったような精神の貧困と空虚とから起きる退屈以外の何ものでもない。」(『幸福について』)

 フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』という映画はこうした問題を主題にしていました。主人公はゴシップ記者のパパラッチです。やがて彼は上流階級の歓楽をむさぼるパーティーに参加するようになるのですが、乱痴気騒ぎの後に無気力と空虚が押し寄せてきます。

 富ばかりを追いかけても、所詮このような結果になるのです。しかし、「それにもかかわらず人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている」のです。

関連記事:豊かになっても幸福は増えない

甘い生活 デジタルリマスター版
マルチェロ・マストロヤンニ
B000X1MRRA
精神の貧困だけではなく、社会的アノミーも描いています。

テーマ : 哲学/倫理学
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『幸福について ―人生論―』ショーペンハウアー

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー
4102033017


 世界的に有名な幸福論といえば、アラン、ヒルティ、ラッセルの3大幸福論です。しかし、アランは統一感のない漫然とした随筆、ヒルティは勤勉を旨(むね)とするキリスト教倫理、ラッセルは常識的と、どれもたいして面白くはありません。

 それに対してショーペンハウアーの『幸福について』は、厭世的で皮肉がきいていて刺激的。面白さではピカイチですが、偏向的な内容のため読者を選びます。合わない人は諸言(まえがきの意)を読んだだけで、拒絶反応を起こすでしょう。

 そんな『幸福について』ですが、私にとっては最高に面白い一冊です。先日、新宿のジュンク堂で活字の大きな新版を購入した記念に、この本から引用しながら、心に移りゆくよしなしごとなどをそこはかとなく書きつらねてみようと思います。

 まずは、「第一章 人間の三つの根本規定」より。

 ショーペンハウアーは、人のあり方、人の有するもの、人の印象の与え方という人間の三つの根本規定のうち、人のあり方こそがもっとも幸福に関係が深いといいます。

 「いうまでもなく人間の幸福なあり方、いや、人間の生き方全体にとって主要なものが、人間自身のなかに存するもの、人間自身のうちにおきるものだということは明らかである。ここにこそ内心の快不快が直接宿っているわけだ。というのは内心の快不快は、ともかく、人間が感じたり意欲したり考えたりする働きの結果だからである。これに反して外部にあるいっさいのものは、何といっても間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない」(『幸福について』ショーペンハウアー、橋本文夫訳)

 同じ出来事に対する反応もひとそれぞれです。ちょっとしたことを不快に感じてしまうひともいれば、まったく動じない人もいます。ある人にはストレスになる事態が別の人には楽しい場面となります。

 外部の出来事そのものではなく、それを受けとめる私たちの側の個性によって幸福は大きく左右されます。

 幸福を構成する要素として大きな部分を占める楽しむ能力もまた人によって異なります。

 「個性によって、人間に与えられる幸福の限度が、あらかじめ決まっている。ことに精神的能力の限界によって高尚な享楽の能力が永遠に釘づけされている」(同書)

 何かを見聞きして面白いと感じるのは、その面白さを感じるだけの享受能力が自分にあればこそです。ピカソの絵が子どもの絵にしか見えないひともいれば、その色使いの奔放さや形のは把握の大胆さに感動する人もいます。

 ショーペンハウハーは享受ではなく享楽といっていますから、受け取るだけではなく、自分が表現したり、考えたりすることも含みます。ですから自分でも絵を描くことができれば、それだけ楽しめるということです。

 音楽もしかりです。享楽の能力があれば、聞いて楽しみ、演奏して楽しみ、作って楽しめます。

 学問なども同じです。勉強するだけでなく、自分でも考えたり、研究したりしてそれを楽しむことができます。

 ショーペンハウアーが「高尚」という言葉を使ったので、つい芸術や学問を連想してしまいますが、ゲームやマンガでも同様ではないでしょうか。

 ショーペンハウアーは「最も高尚で最も変化に富み最も持続的な享楽は精神的な享楽」だといいます。だからこそ、ショーペンハウアーは、精神的な喜びを知っている者をより幸福であり、そうでない者は哀れな人であると考えています。

 現代は娯楽が多いために精神的な享楽も増えました。ブログを書くこともそうでしょうし、マンガや映画もそうです。昔はなかった精神的な享楽が増えています。自分で作り発表する場もあります。そういう意味では、「変化に富み最も持続的な享楽」を手に入れやすい時代になりました。

 ショーペンハウアーなら、もっと高尚なものを求めるべきだと考えるでしょうが、彼の場合、精神的エリート主義の傾向が強すぎるので、少し割り引いて読んだほうがいいようです。音楽といってもクラシック音楽ばかりではありません。ロックを聴いたり、自分で作って、演奏するのもいいでしょう。

 さて、本日の結論です。

 「こういったわけで、幸福がわれわれのあり方すなわち個性によってはなはだしく左右されることが明らかである。ところが大抵はわれわれの運命すなわちわれわれの有するものあるいはわれわれの印象の与え方ばかりを計算に入れている。けれども運命は好転するということもある。そのうえ、内面的な富を持っていれば、運命に対してさほど大きな要求はしないものである。これに反してばかは死なねば直らない。」(同書)

 人のあり方が幸福感に大きな影響を持つことは間違いないでしょう。それなのに、現代の日本人はあまりに外界の事物に頼っていないでしょうか。お金がなければ、地位を得なければ、美しくなければと自分のあり方ではなく、人の有するもの、人の印象の与え方に重きを置きすぎているように思えます。

 楽しみは私たちの享楽する能力に大きくかかわっています。内面的な富をより豊かにするためには、多く読書したり、よい音楽を聞いたり、美術館にいったりと内面的な意味での自分への投資をすべきでしょう。さらには自分でも、何か作ったり表現することにチャレンジすべきです。そういう時間の使い方が豊かさにつながります。

幸福について―人生論 (新潮文庫)
ショーペンハウアー

幸福について―人生論 (新潮文庫)
知性について 他四篇 (岩波文庫) 自殺について 他四篇 (岩波文庫) 読書について 他二篇 (岩波文庫) 孤独と人生 存在と苦悩
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テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『植草甚一スタイル』

植草甚一スタイル (コロナ・ブックス (118))
コロナ・ブックス編集部
458263415X


 植草甚一(うえくさじんいち)、ニックネームは「J・J」。1960年代後半から1970年代にかけて人気のあった海外ミステリー、映画、ジャズの評論家です。付け加えるならば、現代を代表する道楽者。明治生まれの伊達者。といったところでしょうか。

 この本には、植草本人の文章はあまり出てきません。ところどころに引用があるだけです。本人が写っている写真、日記、落書き、コラージュ、様々なコレクション類の写真(とその解説)が中心で、合間にかかわりのあった人による回想などが入ります。

 あくまでもJ・Jがどんな人であったかを伝えようとする構成ですから、ミステリー、映画、ジャズのどれにも興味がなくても大丈夫です。そういう意味では、植草甚一入門に最適の一冊です。

 正直、この人の書いたものにはあまり興味がなかったし、気取った爺さんくらいにしか思っていませんでしたが、この本を読んで、認識をあらたにしました。

 とにかく自分のスタイルを持った人です。とてつもなく個性的なファッションに身を包み、町を歩き、小物類や古本などを抱えきれないほどに買い込んで、喫茶店でパイプタバコとコーヒーで一休み。

 ファッションに関心がなく、ほとんど買い物もせず、ましてやミステリーなどまったく読まず、煙草も吸わず、コーヒーも飲まない私にはできない芸当ですが、なぜか共感します。素敵だなあと思ってしまいます。

 J・Jは道楽者ですが、仕事をほどほどにしようと考えていたわけではないようです。じゃんじゃん原稿を書いて、気に入ったものをどんどん買います。

 本当に独自のライフスタイルを貫いた人だったようです。好き嫌いはともかく、こんな人がいたんだな、と知るだけでも価値があるような人物です。

 高平哲郎が書いたエッセイにあるJ・Jの言葉が素晴らしいので引用します。

 「ぼくは植草さんとはジャズと映画に関しての会話しかできなかったけれど、教わったことは多い。「したくないことをしない自由」と「リラックスして生きる」―――この二つだけでも十分すぎる。」(『少年が迷い込んだ異端のジャズ・ワールド』高平哲郎)

 いうまでもなく、この人は「したいことをする自由」も享受していました。私にとっては理想的な生き方をした一人です。


植草甚一日記 (植草甚一スクラップ・ブック)
植草 甚一

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『徒然草』 独身のススメ

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
4043574088


 「妻というものは、男の持ってはいけないものである。『いつまでも独身でいる』などと聞くと、その男性の人柄に深みが感じられる」(第百九十段)

 兼好法師は、世間の常識と真っ向から対立する独身礼賛論を展開しています。

 この部分の原文はこうです。「『いつも独り住みにて』など聞くこそ、心憎けれ」。今泉忠義訳では「心憎けれ」を「おくゆかしい」と訳しています。どちらもピンときません。「心憎い」のままでもよさそうに思います。

 「家庭をきちんと切り回す女はじつにつまらない。子どもなんか出来て、愛情こめて育てる姿にはうんざりさせられる。」(第百九十段)

 悪妻を嫌うならわかりますが、兼好は良妻賢母を嫌っています。どうやら彼は家庭の団欒とかまったく関心がなく、所帯じみたことが大嫌いなのでしょう。それだけでなく、兼好は女性をかなり低く見ています。「女の本性はゆがみきっている」(第百七段)と蔑視的なことも書いています。

 「利己主義で、欲望が激しく、ものの道理をわきまえない」(第百七段)

 「まことに、女というものは、素直さに欠けた、くだらない存在である。」(第百七段)

 しかし、兼好は女嫌いというわけではありません。色好み的な発言もあります。つまり、くだらないけれども、ひかれる、と。

 「女というものは、その色香に支配されて、彼女の言いなりになっているときだけ、優しくて魅力ある存在に思えてくるような代物にすぎない。」(第百七段)

 女性はくだらないけれど、男に色欲があるから振り回されるだけだと、兼好はいいます。しかも、彼は家庭を求めてはいません。そういう男が望む男女関係はどんなものでしょうか。

 「互いに離れて暮らしているままで、ときどき女を訪ねて泊まるような形にすれば、長年たっても二人の仲は切れることがないだろう。不意に訪れていっしょに寝泊りなんかすれば、二人とも新鮮な気分を味わえること間違いなしである。」(第百九十段)

 そうかもしれません。逆に簡単に別れてしまいそうな気もします。ともあれ、気楽に女性に接して、楽しい部分だけを享受したいと思っていたようです。よくいえば、いつまでも恋人気分でいたいということでしょう。自分勝手な考えかもしれませんが、ずいぶん正直な人だと思います。

 仏教修行をすすめてみたり、結婚せずに恋人でいることをすすめてみたり、徒然草は一筋縄ではいきません。

結婚しなかった男たち―世界独身者列伝
北嶋 広敏


シングル化する日本 (新書y)
伊田 広行

シングル化する日本 (新書y)
スピリチュアル・シングル宣言―生き方と社会運動の新しい原理を求めて シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ (SEKAISHISO SEMINAR) セックス・性・世界観―新しい関係性を探る はじめて学ぶジェンダー論 「非婚」のすすめ (講談社現代新書)
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『徒然草』 今この一瞬を大切に生きよう

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
4043574088


 死を意識して、存命の喜びを感じるのなら、生きている一瞬一瞬も大切であるはずです。兼好は、人生が暇つぶしだなどとは思っていません。とても大事な時間の積み重ねだといいます。しかし、そのことを意識している人は少ないようです。

 「一瞬のような短時間は、その流れをはっきり意識するのはむずかしいが、だからといって、その一瞬をほうっておいては、人間の一生はたちまち最期を迎えてしまう。」(第百八段)

 自分が一瞬一瞬を大切に生きてきたのかと反省してみれば、ちっともそんなことはないことに思い至ります。多くの場合、流されて怠惰な時間を過ごしていました。

 「したがって、その道を極めようとする者は、一日とか一月という長い時間を惜しむような態度ではだめだ。今生きて意識しているこの一瞬が、むだに過ぎてしまうことを惜しまなくてはいけない。」(第百八段)

 一日とか一月で時間を考えると、どうしてもこの一瞬への集中がおろそかになります。長い間隔で時間を見るのではなく、一瞬のこの時間、今生きているこの時間を大切することが大切です。兼好は、今を生きるコツがよくわかっていました。

 兼好は修行者を対象のこのようなことをいっていますが、普通の人にも当てはまるでしょう。誰にとっても生きているのは今なのです。今を大切にしなければ、人生を大切にする機会はありません。

 もちろん、修行者でないのですから、閑適を楽しむのもいいと思います。そのような楽しみだって、今ここにあることに喜びを見出すことであって、無駄とは思えません。

 「たとえば、人がやってきて、あなたは明日必ず死ぬと教えてくれた場合、今日が終わるまでの間、何を頼りにして、どんなことをするだろうか。私たちが生きているこの今日という日も、明日死ぬと言われたあの今日という日と、まったく変わりはないのだ。」(第百八段)

 ガンを宣告された人が残りの人生を一生懸命に生きようとし始めるという話をよく聞きます。さらに、そのことで生きがいを見出し、今に集中して生きることが、ガンを克服することにつながる場合もあります。

 しかし、死は身近にあるものと考えれば、誰にとっても今生きていることは存命の喜びであるはずです。もしかしたら最後の一日かもしれません。そのことを思えば、今日を無駄に過ごすことはできません。

 「何のために時間を惜しむのかといえば、つまらないことに心を遣わず、世間とのつきあいを絶って、真理を追究する志を遂げよ、というわけなのである」(第百八段)

 この翻訳では抜けがあります。「光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修せむ人は修せよとなり」の「止まむ人は止み」を訳していません。

 以下に修正した訳を載せます。

 「何のために時間を惜しむのかといえば、つまらないことに心を遣わず、世間とのつきあいを絶って、それで満足できる人はそれで満足すればよく、真理を追究する人は志を遂げよ、というわけなのである」(第百八段)

 兼好はみんなが修行者であるわけはないことを知っています。おそらく自分もまたそれほど熱心な修行者でもないでしょう。彼は文化人的な面が強いと思います。それも社交的ではなく、遁世的な傾向のある文化人です。おそらく「止まむ人」と「修せむ人」との間を行ったりきたりしていたのではないでしょうか。

 つまらないことを考えず、世間との面倒なかかわりを避け、できた時間を自分なりに大切に使い、それで満足するのもよいものですよ。また、修行する人は一心に修行しなさい。このように兼好はいいます。全面的に賛成です。

 「外に世事なくして」はわかりやすいでしょう。むしろ兼好の観察の鋭さが現れているのは「内に思慮なく」とわざわざ書いたことです。

 人間はつまらない思考に捉われています。どうでもいい想像をしたり、考え事をしたりして、無駄に時間を使います。心のエネルギーもまた無駄遣いします。それは愚かなことであり、今を大切にしないことであると兼好はよく知っていました。

 じっくり読んでみると徒然草は深いです。

徒然草 (角川文庫ソフィア)
吉田 兼好

↑全文を読んだり、補足として利用するならこれがお勧めです。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

『徒然草』 生と死の哲学

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
4043574088


 次に紹介するのは、兼好法師が紹介するあるエピソードにでてくる男の言葉です。エピソードの前後関係は端折って重要な部分のみ引用しましょう。

 「人間誰しも、死ぬのがいやならば、今ある命を愛するべきなのだ。命ながらえる喜びを、毎日たいせつに楽しまなくてはいけない。」(第九十三段)

 この部分、原文が素晴らしいです。「人死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々楽しまざらむや」。とりわけ「存命の喜び」に、兼好の死生観がよくあらわれています。

 人間はいつ死ぬかわからない存在です。人間は死なないから生きています。日々、死を逃れて生きています。死を意識するからこそ生きることのありがたさがわかるわけです。だからこそ「存命の喜び」を日々楽しみなさいと兼好はいいます。

 では、日々を楽しむとはどういうことでしょうか。この段では具体的なことは書いていませんが、物欲、快楽、金銭ではないことははっきり書いています。

 「愚かな人間はこの楽しみを知らず、物欲に振り回されてあくせくしている。命という宝を忘れて、やたらと快楽や金銭という別の宝ばかり追い求めていては、いつまでたっても心満たされることはない。」(第九十三段)

 別の宝を求めてあくせくするのではなく、自分がやりたいことを優先し、生きるのがよいのではないでしょうか。引退したらやりたいことをしようなどと思っていても、そこまで生きているかわかりません。死はいつも近くにあります。それなのに人は死が近いことを忘れています。

 しかし、存命の喜びを楽しむのが最高というわけではありません。最後に兼好はこういいます。

 「生きるとか死ぬとかいう次元にとらわれないで生きているというのならば、それこそは人生の真理を悟っているといってよい」

 死を恐れるから存命の喜びがあります。生死を超越すれば、なにものにも捉われない生き方ができます。

 とはいえ、そこまで達するのは容易ではありません。凡夫にはせいぜい存命の喜びを楽しむことしかできません。いつ死ぬのかわからないのですから、まずはこの生を愛することが肝要です。


徒然草 (くもんのまんが古典文学館)
今道 英治

徒然草 (くもんのまんが古典文学館)
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『徒然草』と『アリよさらば』 その2

E.Y 90’s
矢沢永吉
B00005GM1S


 人生は生滅する一瞬、一瞬の連続です。そのことに気づくことは仏道の目的とすることです。しかし、俗世に生きる人は何も知らず、大切に生きるべき一瞬に人々は群れをなし、角砂糖を求めています。

   人は生まれ
   いつかまた死んでく
   一瞬のその時間に
   群れをなす蟻よさらば
   蟻よさらば
            (『アリよさらば』作詞:秋元康、作曲:矢沢永吉)

 では、アリの群れに別れを告げて、自分はどこへ向かうのでしょうか。歌詞には「俺はごめんだぜ 一人で行くぜ この道のどこかで 倒れても 俺の人生さ」とあります。「この道」がどんな道であるとも書かれていません。が、独りで行く道であることは確かなようです。

 組織がいやだからと自由業や自営業に向かうのでしょうか。矢沢永吉のイメージを重ねれば、ひとりで成功という夢を追うことかもしれません。しかし、これは組織に属していないだけで、基本的にはアリと同じ志向です。

 あくせくする生き方を否定するという意味では、スローライフも候補になるでしょう。B級遊民もこの道です。

 この歌の下敷きとなっている徒然草がすすめるのは、仏道を求めることです。兼好は仏道を求めることを人間が死ぬまでにすべきことと考えていました。

 「生きることの意味を知ろうとしない者は、老いも死も恐れない。名声や利益に心奪われ、我が人生の終着が間近に迫っていることを、知ろうとしないからである。逆に、生きることの意味がわからない者は、老いと死が迫り来ることを、悲しみ恐れる。それは、この世が永久不変であると思い込んで、万物が流転変化するという無常の原理をわきまえないからである。」(第七十四段)

 ここでは「生きることの意味を知ろうとしない者」と「生きることの意味がわからない者」が描かれています。当然、そのほかに「生きる意味を知ろうとする者」と「生きる意味をわかっている者」がいるわけです。それは無常を知ろうとする仏教修行者とすでに知っている仏陀(とその前段階の人たち)です。

 兼好法師は、読者に対して、仏道を目指し、無常を知る道をすすめています。それは、やがて死が来ることを知りながら、無常の原理をわきまえて、平静でいる道です。

 もちろんそれは徒然草の話です。『アリよさらば』が徒然草と仏典を下敷きに書かれているにしても、この歌が仏道のススメであるとは思えません。歌を聴いた人が自分で答えを出すしかありません。

 あなたは『アリよさらば』を聴くと、どんな生き方をイメージするでしょうか。

 ちなみに「一人で行くぜ」に相当する部分が仏典にあります。歌詞としては詩の手法として「群れ」と「一人」を対比させているのでしょうが、私はどうしても以下の句を想起してしまいます。

 「他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め」(『スッタ・ニパータ』四〇)


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
中村 元

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)
ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫) ブッダ悪魔との対話―サンユッタ・ニカーヤ2 (岩波文庫 青 329-2) ブッダの人と思想 (NHKブックス) ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 (岩波文庫 青 329-1)
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『徒然草』と『アリよさらば』

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
4043574088


 「人間が、この都に集まって、蟻のように、東西南北にあくせく走り回っている。その中には、地位の高い人や低い人、年老いた人や若い人が混じっている。それぞれ、働きに行く所があり、帰る家がある。帰れば、夜寝て、朝起きて、また仕事に出る。このようにあくせくと働いて、いったい何が目的なのか。要するに、おのれの生命に執着し、利益を追い求めて、とどまることがないのだ。」(第七十四段)

 都市は人間の富の集積する場所です。そこに集まる人は利を求めてやってきます。そして、アリのように働きに働いています。アリは幸せになるためだと思っているのかもしれませんが、それは幻想にすぎません。

 徒然草のこの段を読んだとき、矢沢永吉の「アリよさらば」を思い出しました。あらため歌を聴くと歌詞がそっくりなことに驚きました。作詞の秋元康は徒然草をヒントにこの歌詞を書いたのではないでしょうか。

   人の群れが
   運んでいる”Happiness”
   ちっぽけな角砂糖を
   探している蟻のようさ

   Why?なぜに…
   教えてくれ
      (『アリよさらば』作詞:秋元康、作曲:矢沢永吉)

 ちなみにこの歌は、TBSのテレビドラマ「アリよさらば」の主題歌でした。矢沢永吉が代行の高校教師役(数学?)で登場して話題になりました。私は見ていませんでしたが、たまたま番組のエンディングを見ていたら、矢沢自身がピアノの弾き語りで「いつの日か」を歌っていました。歌がうますぎて、学校の先生ってレベルじゃなかったです。

 余談を終わります。

 「このように、利己と保身に明け暮れて、何を期待しようというのか。何も期待できやしない。待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。これらは、一瞬もとまらぬ速さでやってくるそれを待つ間、人生に何の楽しみがあろうか。何もありはしない。」(第七十四段)

 仏教では、瞬間瞬間にあらゆるものが変化すると教えています。自分の心もその対象となる世界もすべて生じては滅しています。諸行無常です。そして、人生の先には老いと死があります。そして、ほとんども場合、病もあるはずです。

 「人生に何の楽しみがあろうか。何もありはしない」。この部分はなかなか理解しにくいところです。

 人生をよく観察すれば、楽しみなどほんの一瞬であることがわかります。ある苦しみから抜け出たときに、ああよかったとほっとするときに喜びはあります。欲しかったものを手に入れて、嬉しいこともあります。しかし、それは長続きするものではありません。すぐに別の苦しみに捉えられてしまいます。基本的には、人間はただある苦しみから別の苦しみに移っているだけです。

 なにかの快楽に捉われることもあります。その快楽を持続させようとし、また快楽を何度も手に入れようとしていると、今度は依存症という心の病気になってしまいます。依存症は快に捉われ、渇望し求める苦しみの世界です。

 そんなことをしながら、人はただ老いていくのです。矢沢永吉は「行き先も知らないまま行列は老いるだろう」と歌っています。そして「人は生まれ いつかまた死んでく」のです。
 
 (この項つづく)

E.Y 90’s
矢沢永吉
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『徒然草』 友と読書について

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
4043574088


 「気持ちのぴったり合うような相手と、心静かに語り合い、おもしろい話題や人の世の無常などを取り上げ、本音を吐いてすっきりするのは、楽しいに決まっている。しかし、そんな相手はいるはずもないので、相手の意に反しないように、気を遣いながら向かい合っているとしたら、逆に孤独感が湧いてくるのではないだろうか。」(第十二段)

 人間関係に期待をすれば失望するのは必定です。孤独感はやがて理想の友はいないという諦念へと変わります。どうせ俗世にいても友は得られないのだからと、またひとつ兼好の中で遁世へ向かう理由が増えたことでしょう。

 意見が合わなくても議論をして楽しめばよいだろうとの反論に対して兼好はこのように答えます。

 「退屈しのぎにはよいだろうと思う。けれども、実際には、人の世を嘆く話題のときでも、自分と少し合わない相手の場合、雑談している間は我慢できるが、ほんとうの心の友に比べると、遠く及ばないものだと思い知らされて、なんとも寂しくなってしまう。」(第十二段)

 まったくですねといいたくなります。退屈しのぎにはなるけど、なんか疲れます。軽い雑談なら我慢できます。で、どうしても人との付き合いは軽い話題でその場をしのぐことになります。

 理想の友がそもそもいるのかどうかもわかりません。他人に高い理想を求めることが間違っているのですから、お互いあまり踏み込まず、そこそこの関わりでやりすごすのが大人の付き合いというものでしょう。

 しかし、物足りなさは残ります。心の隙間をどう埋めたらいいのでしょう。

 「独り灯火のもとで読書して、作者や登場人物など、知らない昔の人を友とするのは、何よりも心が安らぐ。
 書は、『文選』の感銘深い巻々や『白氏文集』『老子』『荘子』などがふさわしい。我が国の博士たちの書いた本も、昔のは心にしみる内容のものが多い。」(第十三段)

 書物の中に友を見出すことがその答えでした。このようにして読書人はうまれるのかもしれません。

 原文には「見ぬ世の人を友とする」とあります。いい表現です。徒然草にはこのようなうまい表現がよくでてきます。現代語訳で読んでいて、ふと気になったところがあれば原文を読んでみることをお勧めします。徒然草の魅力は、内容とともにその名文にもあります。

 兼好が好んだ書物は古典です。『文選』は中国の古典のアンソロジー。陶淵明の「帰去来辞」も含まれています。『白氏文集』は白楽天(白居易)の作品集。『老子』『荘子』はいわずと知れた脱俗的な哲学書です。兼好にチョイスにシンパシーを覚えます。

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『徒然草』 吉田兼好

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
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 吉田兼好は鎌倉時代から南北朝時代を生きた歌人、随筆家です。本名は卜部兼好(うらべかねよし)。出家して兼好法師(けんこうほうし)となります。吉田の姓は兼好が死んだ後に親類が改称したためにそう呼ばれているだけで、本人とは関係ありません。

 あまりに有名な徒然草ですが、冒頭以外はそれほど読まれていはいないしょう。なにしろ古文であるし、現代語訳もぴったり来るものがありません。現代人には興味を引かない話も多い。

 その点、角川のビギナーズ・クラシックは面白いところのみの抜粋であり、現代語訳がかなりこなれていて読みやすくなっています。ほどよく解説がついていて、親切で、飽きさせません。

 徒然草は短い随筆の集まりなので、どこを面白く感じるかは人それぞれです。そこで、いくつかの記事に分けて、この本から私が気になった部分をいくつか紹介することにします。

 まずは、その「孤独の哲学」から。

 「時間をもてあます人の気が知れない。何の用事もなくて、独りでいるのが、人間にとっては最高なのだ。」(第七十五段)

 中級の宮廷役人を三十歳ほどでやめて遁世者となった兼好は人間社会つきあいのわずらわしさに嫌気がさしていました。しかも「何の用事もなくて」と書いているように、一人になって仕事をするわけでもありません。ただ、暇でいることを望んでいます。「閑適」のススメです。

 もっとも彼の場合は歌人であり、このような随筆も書く知識人ですから、そのような文化的活動をしたいという気持ちがあったわけです。「閑適」とともに「道楽」も目指しました。

 「世の中のしきたりに合わせると、欲に振り回されて迷いやすい。人と話をすると、ついつい相手のペースに合わせ、自分の本心とは違った話をしてしまう。世間とつき合いでは、一喜一憂することばかりで、平常心を保つことはできない。あれこれ妄想がわいてきて、損得の計算ばかりする。完全に酔っぱらいと同じだ」

 兼好は出家者ですから、感情を動かさないで平常心でいることを理想としています。仏教では莫妄想(妄想するなかれ)という戒めがあります。世間の中で生きているとそれがうまくできません。閑居することで心の平安を得たいとの願いがあったのでしょう。

 私としては完全に感情を抑えて生きることなどしたくはありませんが、喜怒哀楽につよく動かされて生きるよりは心の平静を基調としていたいと思っています。そういう意味では、おおいに共感します。人付き合いはほどほどで満足です。

 ちなみに閑居は「暇でいること」の意味ではなく、「一人で静かにいる」の意味です。中世文学ではしばしば遁世して草庵で暮らすことをさしていいます。

 「まだこの世の真理を悟ることはできなくとも、煩わしい関係を整理して静かに暮らし、世間づきあいを止めて、ゆったりした気持ちでほんらいの自分をとりもどす。これこそが、ほんの短い間でも、真理に近づく喜びを味わうといってよいのである。」(第七十五段)

 リラックスした時間の中でほんらいの自分をとりもどす。今ならさしずめ、カフェでまったり、といったところでしょうか。

 しかし、後半の「これこそが…真理に近づく喜び…」はいささか誤訳の気味があります。原文では「暫(しばら)く楽しぶともいひつべけれ」となっています。角川文庫の今泉訳では「それが即ち、暫くでも、この世を楽しむこととなるともいふことができよう」です。

 ですから、「本来ならば閑居は仏道のためかもしれないが、リラックスして楽しむのもいいじゃないか」と俗っぽい楽しみをいっていると解釈したいところです。

 徒然草には仏教修行のススメといった側面もあります。しかし、ゴリゴリに押してくるわけではありません。仏道への真剣さを語りながらも、けっこう俗っぽさを残しています。そこが徒然草のよさではないでしょうか。

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『山頭火句集』 種田山頭火 村上護編

山頭火句集 (ちくま文庫)
種田山頭火、村上 護編
4480029400


 種田山頭火(たねださんとうか)は明治から昭和を生きた放浪の俳人です。

 仕事も家庭もうまくいかないダメ男が自殺未遂の末、出家得度し、片田舎の寺の堂主となるのですが、「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」のでした。山頭火、四十四歳でした。

  分け入つても分け入つても青い山

  生死の中の雪ふりしきる

 彼の詠む俳句は自由律俳句なので、五七五の十七音におさまりません。まさに自由にリズムを生みだします。たとえば山頭火の句の中でも一番有名な句。

  どうしようもないわたしが歩いてゐる

 ここに内在するリズムは定型では決して生み出せないものです。もし五七五に収めようとすれば、叙情に流れるか、形式美にまぎれてしまうでしょう。どうしてもこのリズムでなければならない必然性を感じます。

 彼の旅はどうしようもない自分を抱えて歩くことそのものでした。そして、お坊さんの格好をして、お布施をいただきながらの貧乏旅でもありました。しかし、この人はどこまで仏教修行者といえるのかよくわかりません。ひたすら歩き、句を作る旅なのです。

  この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

  落ちかかる月を観てゐるに一人

  食べるだけはいただいた雨となり

 山頭火には欠点がありました。大酒飲みであること、酒に関してはまったく自制がきかないことです。仏教修行者は不飲酒戒があるので、お酒を飲んではいけません。しかし、山頭火は、お布施でいただいたお金があると、宿に泊まって、温泉につかり、つい酒を飲んでしまいます。宿に泊まれなくても酒を買うことがあります。

  ほろほろ酔うて木の葉ふる

  酔うてこほろぎと寝てゐたよ

 山頭火は俳句誌に俳句を発表していました。一部に熱狂的なファンがいて、いろいろ世話をしてくれる人もいました。句友たちとの交友もありました。その点、めぐまれていたのかもしれませんが、なぜか放浪をやめることができません。庵を結び、一時的に腰を落ち着けても、しばらくすると放浪の旅に出てしまいます。

  また一枚ぬぎすてる旅から旅

  たたずめば風わたる空のとほくとほく

  啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない

 昭和十四年の暮れ、松山市に一草庵をかまえて暮らしはじめます。年が明けて、それまでの集成である句集『草木塔』を刊行します。すぐに句友に献呈するための最後の旅に出ています。

 旅から戻ったその年の秋、一草庵で句会がありました。山頭火は酩酊して隣室で休んでいました。散会後、山頭火はひとり明け方に亡くなりました。診断は心臓麻痺。五十八歳でした。

 山頭火は、自分の旅はいつまで続くのか、自分はいつまで生きるのかと、よく考えたようです。しかし、頑健な体を持った山頭火は旅で死ぬことはありませんでした。句会の日の翌日にあっさり死んだことは、彼には予想外だったかもしれません。

 彼の人生を一つの作品としてみた場合、野垂れ死にの方が彼にふさわしかったでしょう。しかし、ひとりの人間の死と見れば、このくらいでちょうどよかったのかもしれません。そのおかげで読者は心穏やかに彼の句を読むことができます。

  なかなか死ねない彼岸花さく

 そう、あなたはそう簡単には死なないんだよ、などと思いながら。

 ちくま文庫のこの本は、句のほかに随筆も収めてあります。巻末には年表もあります。小崎侃による版画の挿絵も素晴らしい。手放せない一冊です。


山頭火句集 (ちくま文庫)
村上 護

山頭火句集 (ちくま文庫)
山頭火随筆集 (講談社文芸文庫) 俳人山頭火の生涯 尾崎放哉全句集 (ちくま文庫 お 57-1) 尾崎放哉句集 (放哉文庫) 尾崎放哉句集 (岩波文庫 緑 178-1)
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ジャンル : 本・雑誌

『方丈記』 鴨長明

方丈記 (講談社学術文庫 459)
安良岡 康作
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 動乱の中世に生きた鴨長明が中年になって出家し、4畳半ほど(方丈)の小さな庵で書いた随筆が『方丈記』です。

 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

 ここには彼の日本的かつ抒情的な無常観がよく現れています。人の世はじつに儚いとの詠嘆と諦観が日本的無常観の本質でしょう。(本来の仏教的無常観はちょっと違います)

 この序のあと、長明は火事、つむじ風、遷都による混乱、飢饉、地震について描きます。こうした災害により簡単に家がなくなったり、人が死んでいくことに深く感じるところがあったようです。

 とりわけ住居にたいする関心が強いのは、彼がもともと大きな家に住んでいたことと関係があるようです。なにしろ方丈の庵は30代で暮らしていた家の100分1の大きさしかないとわざわざ書いていますから。

 彼が出家し、隠遁した理由はこの無常観だけではありませんでした。いくつかの挫折が関係しています。

 鴨長明はなかなかの趣味人でした。和歌と琵琶はいい先生について勉強し、腕前もかなりのものでした。しかし、和歌では定家には評価されずに終わり、琵琶ではつい調子に乗って後鳥羽院より非難されます。これらのことで挫折感を持っていたといわれています。

 禰宜(神職の一種)の家督が継げなかったことも彼の挫折のひとつです。もともと次男として生まれたのですから、それほどの執着があったかどうかは疑問ですが、彼が隠遁するのは禰宜につけるかどうかの騒動の後ですから、直接の引き金になったようです。

 長明は世間の付き合いのわずらわしさに閉口してもいたようです。煩悩の俗世間をいとう文章も書いていますから、隠遁へ向かう気分はもともとあったのかもしれません。

 このようにいくつかの理由から彼は隠遁しました。

 しかし、隠遁といっても、けっしてお金に困っていたわけではありません。彼には荘園からの収入がありました。念仏修行をしたり、琴や琵琶に興じたり、そして執筆活動をしたりとなかなか気ままな生活です。自然と親しむ様子も方丈記には書かれています。

 この時期、長明は『方丈記』のほかに歌論書の『無名抄』、説話の『発心集』を書いています。完全に世に隠れたわけではなく、好きなことをして暮らしたといった感が強く、悲壮感はありません。

 こうした気楽な隠遁生活を淡々と記述したところに『方丈記』の面白さがあります。これがもし、修行一辺倒、世間と完全に没交流であれば、人々の共感を得るのは難しかったでしょう。

 残念なのは、この方丈記があまりに短いことです。とくに後半の隠遁生活を書いた部分をもっと詳しく、できれば日記のように書いてもらえたなら、と思います。

 しかし、無理をいっても仕方ありません。中世にこのような人が生きて、本を残してくれたことに感銘を受けます。私には『方丈記』の存在はとても心強いのです。

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方丈記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス (SP89))
鴨 長明

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ジャンル : 本・雑誌

『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』永井永光、水野恵美子、坂本真典

永井荷風 ひとり暮らしの贅沢 (とんぼの本)
永井 永光
4106021420


 孤独とエロス、優雅と吝嗇が交錯する奇行の小説家、永井荷風の生活ぶりを紹介するムックです。著者の一人、永井永光は荷風の養子です。

 目次をみるとわかりますが、荷風の生活を多角的に紹介していて、生活者荷風の様子がよくわかる構成となっています。

 第1章 ひとり暮らしの賑わい
 (荷風のひとり暮らし遍歴、身のおきどころ、金と時間の使い方 ほか)
 第2章 食の歓び、自炊の愉しみ
 (荷風の食べもの遍歴、好物・鰻の蒲焼き、そしてお歌、茶筒に残る葛粉 ほか)
 第3章 散人、晩年に愛した街
 (川を渡って浅草へ、心癒された市川の風景)
 第4章 好んだ季節の花々

 写真が豊富で、荷風が好んだものや生活で使用したものがなんであったのかがよくわかります。文章もいいし、荷風に関心を持っている人はもちろん、荷風入門にも最適の一冊です。ただし、巻末に載っている荷風のエロ小説(初公開)はいただけません。時代の風俗を反映しているものの、たいした小説ではありません。

 荷風は36歳で二度目の離婚をしてからは、独身を通しています。その後は、愛人との関係、浅草の劇場の踊り子との交流など続きます。男性との交友はごく限られていて、ほぼ人間嫌い。最晩年は孤独の中で死を迎えます。

 フランス、アメリカでの生活から帰り、父の遺産を受けて麻布・偏奇館で生活をはじめたあたりまでは、なかなか優雅な生活ぶりだったようです。東京大空襲により偏奇館が消失し、日本の敗戦もあり、暮らしぶり一転。知人の家に寄寓していた頃はかなり生活は苦しかったようです。もっとも日本中がモノ不足で苦しかったわけですが。

 千葉県市川の平屋の小さな家が終の棲家となります。

 後半生の生活ぶりは写真で見るとみすぼらしい。外出時はきちんとしていますが、家の中の様子はほんとにひどいです。生活の美に関してはほとんど無頓着です。知人の家を間借りしていたころは普通の部屋の畳の上に七輪を置いて、キッチンとダイニングをかねています。背広にネクタイを締め、そこで自炊する荷風の様子が写真に残っていますが、あまりの奇妙さに絶句します。(そのくせお金はいっぱい持っていました)

 散歩好きでカメラ好き。江戸趣味と西洋趣味の混在。偏った性格と行動パターン。金持ちに生まれた吝嗇家。代表作が日記という小説家。文化勲章を受けたエロじじい。じつに魅力的な奇人です。

 今年の冬から春にかけて世田谷文学館で開かれた『永井荷風のシングル・シンプルライフ』に行きました。この本に写真で紹介されていた荷風の使った品々が展示されていました。写真で見たとおり、どれもたいした品物ではありません。でも、荷風の好みは反映しているし、独特の味わいがあってよかったです。

 部屋の様子も再現されていました。じつにこじんまりとした書斎です。そこに座ってしばらく佇んできました。

 荷風散人。好きなことだけをして生きぬいた、とってもワガママで素敵な変人。

永井荷風 ひとり暮らしの贅沢 (とんぼの本)
永井 永光

永井荷風 ひとり暮らしの贅沢 (とんぼの本)
永井荷風ひとり暮し (朝日文庫) 父 荷風 荷風語録 (岩波現代文庫) 荷風極楽 (朝日文庫) 荷風さんの戦後
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テーマ : 読んだ本。
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