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江戸時代における若隠居

 40代で退職と聞くと、すごく早い引退だと思われるでしょう。じつは40代での引退は江戸時代の隠居に多く見られます。江戸時代には成功した商人などが40歳くらいで家督を子供に譲り、自分はわずかな隠居料をもらいながら、隠居することがよくありました。

 時代によりますが、武家には年隠居の齢制限があったので、早く隠居したいと思っても自分勝手にはなりませんでしたが、町人は隠居の適齢期が決まっていたわけではありません。本人が望み、状況が許せば隠居がかないました。

 井原西鶴は『日本永代蔵』で、「人は十三才迄(まで)はわきまへなく、それより二十四五までは親のさしづをうけ、其(その)後は我と世をかせぎ、四十五迄に一生の家をかため、遊楽する事に極まれり」と書いています。四十五歳までに一生困らないだけの身代(しんだい)を築き固め、それで遊び楽しむのが理想だといいます。45歳といえば、現在の働き盛り。平均寿命が違うとはいえ、うらやましい文化です。生涯現役なんてのは、がっつきすぎというものでしょう。

 このような文化であれば、隠居に対する世間の目は優しいものです。隠居する側にも心理的抵抗がありません。現代では、早期引退して遊んで暮らしたいと思っても、世間の目が気になってゆっくりできません、自分の中にも勤勉主義が内面化されていて、のんびりした閑適と趣味の生活に入っていけないのです。

 西鶴は「若(わかき)時心をくだき身を働き、老(おい)の楽しみはやく知(しる)べし」とも書いていて、若い頃に一生懸命に働いて、早いこと老いの楽しみを知るべきだと、若隠居を勧めています。働くのは隠居のためだといわんばかりです。

 これまでの話だと、金持ちだけが隠居をし、とりわけ若く成功した者のみが若隠居を楽しめたように思うかもしれません。しかし、実際は経済的成功を得たわけでもないのに、早々と隠居を決めた例も多く見られます。とくに自分のやりたい道のあった人は経済的な保障も見込みもないままに、若隠居後の別人生に飛び込んでいます。

 井原西鶴自身は、33歳で隠居の身になっています。裕福な町人の家に生まれたのですが、晩年の生活は困窮しました。おそらく悠々自適な生活を保障された上での若隠居というわけではなかったのでしょう。52歳で没しています。

 松尾芭蕉は若いころに伊賀国上野の武士の家に出仕していましたが、それを退くと江戸に出てきて神田上水の浚渫工事を組織する仕事をし、36歳で隠居の身になっています。

 芭蕉は財産にゆとりがあった形跡はありません。俳諧の宗匠であったので、弟子たちの支えを受けながら生活をしたようです。『奥の細道』を読むと、旅の先々で芭蕉を慕う人々の歓待を受けた様子が描かれています。

 36歳の隠居は早いような印象を受けますが、旅に明け暮れた芭蕉が50歳で病死したことを思えば、この若さで隠居したからこそ、数々の名句が生まれたわけで、西鶴と同様にとくにやりたいことがある趣味人ならば若い年齢での隠居を目指すべきとの教訓を残したともいえます。

 「東海道五十三次」の浮世絵の連作で知られる歌川広重は、さらに若い年齢で隠居をしています。わずか26歳の若さで義弟に家督を譲り、隠居の身となりました。広重の場合は養子に入った家に子供ができて、仕方なく家督を譲りました。経済的成功とも無縁です。

 広重もまた若く隠居したがゆえに絵に没頭できたわけです。広重は65歳で病没しています。西鶴、芭蕉に比べれば長命であったし、人気絵師となった晩年はさぞ悠々自適の生活だったろうと想像されるかもしれませんが、著作権がなかった当時の絵師は裕福ではありません。

 総じて彼らなりに晩年を輝いて生きられたのは若隠居のたまものであったといえます。そこそこ食えればいい。好きなことをやって暮らしたいというのが、彼らの一致した願いではなかったでしょうか。

 わざわざ江戸時代の例を引いたのは、早期退職には若隠居という文化的な伝統があるとわかって欲しかったからです。

日本永代蔵―現代語訳・西鶴 (小学館ライブラリー)
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おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
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もっと知りたい歌川広重―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
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テーマ : **暮らしを楽しむ**
ジャンル : ライフ

ひたすら貯金をして早期退職をめざす

 まず、サラリーマン生活からB級遊民への道を探ります。

 それには早期退職が一番安全確実な方法です。普通にサラリーマンとして働いて、貯金に励み、リタイア後の生活を守る資産を用意して、自分で勝手に早期リタイアをしてしまいましょう。

 自分勝手な退職ですから、会社の都合の退職にくらべると金額的に厳しくなります。というか、普通の額しかもらえません。そのあたりは覚悟して、事前に総務に相談するなりして、退職金の額を聞いておいたほうがいいでしょう。

 引退後のためにどれだけ貯金をすべきかは、引退後にどういう生活をイメージしているかによって違ってきます。他の生活手段が併用できるかどうかにも大きく影響されますので、一概にはいえません。自分なりの計算が必要です。

 しかし、計算してみて生活が成り立つ見込みがあるのなら、早い時期から実行することをおすすめします。

 定年まで働いて、引退するとして、はたして自分の好きなことができるでしょうか。健康でいられるでしょうか。趣味によっては元気なうちに早期退職に踏み出さないと、何もできずに終わることもあり得ます。スポーツ系や旅系など、エネルギーの必要な趣味はとくにそうです。別分野に華麗に転身などと考えている人も若いうちから転身した方がチャンスが多いのは当然です。

 そうしたことも考えると、50代どころか40代での早期退職も視野に入れなければならないでしょう。
 また、早期退職を目指すなら、若い頃から節約に励まなければなりません。

 節約というケチ臭く、苦労のわりに報われない印象を持つかもしれませんが、長年続けた場合の節約の威力は相当なものがあります。

 節約を年利で考えてみれば、その有効性がよくわかります。例えば、100万円を貯金に1%の利息がついても、1万円にしかなりません。しかも、いまどき1%の利息する夢のような高利子です。ところが、年に1万円の節約などたやすくできます。数千円の無駄な買い物をあきらめれば、数千円が丸ごと節約できるし、1万円の買い物を1000円安く買うことができれば、1000円の節約です。こうした積み重ねで年に数万円を浮かせるなどそう難しいことではありません。

 もし、5万円の節約ができて105万円の貯金ができたなら、年利5%で預けたのと同じことです。複利でないのが残念ですが、今時こんな高利の預金など、少なくとも日本のどこにもありません。

 若いころからせっせと節約し、貯金に励めば、それだけ余裕のあるB級遊民になれます。サラリーマンなど貯金する余裕がある人はお金をためることを第一の目標に暮らすことをお勧めします。

 同じ早期退職でも企業がリストラの一環で行っている早期退職制度に遭遇できた人はラッキーです。早期退職制度は、定年よりも早く退職すると、退職金がその年齢で本来もらえる額よりも多くもらえるという願ってもない制度です。こんな幸運は滅多にあるものではありません。早期退職制度のチャンスがめぐってきたら、迷わず飛びつきたいものです。


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テーマ : 楽しく生きる
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B級にも生活費が必要

 B級遊民はどうやって生活基盤を確保すればいいのでしょうか。いかに生活費を稼ぐのでしょうか。いくら閑適に憩い、趣味を楽しむといっても、それらがお金を生み出すわけもありません。質素にも限界があります。それなりの収入源の確保は必要です。

 これからいくつかの方法を提案しますが、これらはひとつの方法だけで万事解決というほど強力なものではありません。正規雇用による安定収入に比べるとやはり不安定な収入であることは間違いありません。

 そのため、リスクヘッジ(危険回避)をするために、複数の収入確保の道を併用することをお勧めします。複数の方法を併用することで、不安定収入というリスクを回避、もしくは低減することができます。

 たとえば…。

 小さなお店を自営しながら、フリーマーケットでも出店をし、オンラインショップを開く。

 フリーランスのWebデザイナーをしながら、オンラインで自分が趣味で描いた絵を売り、アフィリエイトでも収入を得る。

 古書店を開きながら、フリーライターの仕事をし、インターネットのオークションで古物商を営む。

 併用可能な組み合わせはいくつもあるでしょう。これらにパラサイトシングルや田舎暮らし、海外暮らしなどの節約方法も組み合わせれば、さらにバリエーションは増えます。

 そのときそのとき、自分が置かれている状況を考慮して、あらゆる方法を取り込んで、自分なりの生き延びる方法を模索していただきたいと思います。


スローワーク、はじめました。
谷田 俊太郎
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テーマ : 楽しく生きる
ジャンル : ライフ

知的好奇心は人間らしい快楽

 人間が知的好奇心を満たすことを好むのは、人間の生物として特徴です。

 進化の過程で動物は外界の情報から危険を察知したり、獲物のありかを知ったりするようになりました。とりわけ人間は、世界がどうなっているかを知的に理解し、想像力を働かせることによって、より柔軟な行動が取れるようになりました。知的好奇心と想像力は生き残るために有利な能力だったのです。

 神経経済学者のジョージ・ローウェンステインによると、好奇心は「知りたいと思っていることと現に知っていることのギャップ、すなわち『情報のギャップ』に気づくところから生じる」そうです。(グレゴリー・バーンズ『脳が「生きがい」を感じるとき』日本放送出版)

 世界についての不完全な知識より完全な知識の方が生きるにはより有利でしょうから、知識を更新することはとても重要なことなのです。自分の知識に何か間違いがあると気づいたら、即座に訂正しなければなりません。そして、そのように知識を訂正した個体ほど生き残りやすかったのです。

 しかし、人間において知的好奇心は本来の目的から離れてしまいました。知的活動は、もはや生きることとは独立した楽しみとなっています。

 趣味の世界における知的好奇心の例をあげましょう。

 鉄道マニアは電車についての膨大な知識を持っていて、電車の車両のわずかな違いにも気づきます。彼は新しい情報に好奇心を示し、すぐに飛びつきます。そしてより完全な知識を得ようとします。「ある特別な事柄について知れば知るほど、自分の無知に気づくこととなり、その認識がさらなる好奇心を誘発する」(同前)からです。

 知的好奇心を満たすことには快感が伴います。ですから、「好奇心は中毒になりやすい性質のもの」(同前)です。そこにマニアやオタクが生まれる原因があります。科学の世界も同じく知的好奇心にとりつかれた人たちが生み出したものですが、社会にとってはどうでもいいような分野でのマニアの世界も同じ原因により生み出されました。

 もちろん誰もがマニアやオタクになるわけではありません。たいがいの人は、ある程度のことがわかったら、それで満足して熱は冷めてしまいます。好奇心は人を中毒にもしますが、適当なところで知的好奇心に歯止めをかけることも理性の働きです。

 どちらがいいというわけではありません。とことんやりたい人は一つの道を追求すればよいし、そうでない人はいろいろな趣味に手を出せばよい。自分の個性に従って、自分なりの好奇心の追求をすればいいのではないでしょうか。

 道楽は道を楽しむと書きます。道を一筋に追求する楽しみもあれば、好奇心のおもむくままにあちこちに首をつっこむ道の楽しみ方もあるのです。

 ちなみに、白川静によれば「道」という字は、異族の首を刎ねて、邪霊を払う呪具としてかかげて、未知なる地に踏み入ることを意味しています。「その生活圏を外に開くことは、ときには死の危機を招くことをも意味する」(『文字逍遙』)。

 探求の道は気楽に楽しむにしてはいささか物騒なようです。好奇心にかられてひとり未開の地にのぞむ人は邪霊に襲われないように気をつけてください。


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知的な活動は疲れない

 人様が好き勝手にやっている趣味に対して、どれが上等でどれが下等であると優劣をつけるのは野暮というものですが、ショーペンハウアーは『筆のすさびと落穂拾い』でこのように書いています。

 「人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである。けれどもこの点で最大の満足が得られるのは、何かを仕上げること、作ることである。籠を編むもよし、書物を著すもよい。特に一つの労作が自分の手で日に日に成長し、やがて完成するのを見るということからは、直接的に幸福が与えられる。こうした働きをもつものは芸術作品とか著述とかである。いや普通一般の手工業でさえ、こうした働きをもっている。とはいえ労作が高級であればあるほど、享楽も高尚であることはいうまでもない。」(『幸福について』橋本文夫訳、新潮社)。

 頭を使わず何も残らないドミノ倒しよりも、油絵を描いたり、短歌でも作った方がより高級な趣味でしょうし、満足度も高いでしょう。ショーペンハウアーがいうように楽しみにも高級なものとそうでないものの違いは確かにあるようです。ギャンブルや飲酒などは趣味としてはレベルが低く、悪い意味での道楽に分類されるのも当然です。

 ショーペンハウアーは続けます。「重要な、偉大な、まとまった労作を生み出すだけの能力を自覚した才能の豊かな人は、この点からみて、いちばん幸福である」。おそらく『意志と表象としての世界』を書き上げた自分自身のことをいっているのでしょう。ここまでくると自慢話として割り引いて聞いた方がよさそうです。

 B級遊民はそこまで求めません。もっと大衆化したレベルにあるからこそB級なのです。それこそ趣味の範囲でよろしいという軽いスタンスが欲しいところです。

 より知的な活動ほど上等であり、それが可能なほど幸福であるという考えはアリストテレスに起源があります。知性(理性的本性)こそが人間の最高の本性であり、その知性を充分に発揮することが徳であり、幸福であると彼は考えました。カール・ビューラーの言葉を使えば、知性の活動こそが機能快というわけです。

 「知性の活動は--まさに観照的なるがゆえに--その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外のいかなる目的も追求せず、その固有の快楽を内蔵していると考えられ(この快楽がまたその活動を増進する)、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的・その他およそ至高なる人に配されるあらゆる条件がこの活動に具備されていることが明らかになってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、まさにこの活動でなくてはならないだろう。」(『ニコマコス倫理学』アリストテレス、高田三郎訳、岩波書店)

 アリストテレスによれば、知性の活動=哲学は労働ではありません。かといって、遊びではないし、暇つぶしでもありません。真剣に行われる閑暇的な活動です。一般的な用語で言えば、趣味、道楽でしょうが、あまりに高尚すぎて凡人が近づけないほどの(至高なる人には可能な)人間の究極的な幸福です。ここまでくるとわれわれとは無縁ですが、究極の姿、理想型としてはこうなるようです。

 今の引用の中に「無疲労的」とありました。頭を使ってなぜ疲れないのかと不思議に思いますが、「脳は疲れない」とする研究者もいます。脳科学者の池谷裕二は『海馬/脳は疲れない』で「脳はいつでも元気いっぱいなんです。ぜんぜん疲れないんです」と発言しています。「脳が止まってしまったら、体肢も五臓六腑もぜんぶ動きがストップします。寝ているあいだも脳は動き続けて、夢を作ったり体温を調節したりしています。一生使い続けても、疲れないですね。疲れるとしたら、目なんですよ。」

 頭が疲れたな、と思っても実際には脳は疲れていないそうです。知的な趣味に疲れたら、目を休め、体を少し動かしてやれば、また続きができます。

 肉体を使った趣味にも魅力はあります。スポーツクラブで運動した後に入るジャグジーバスの快感は素晴らしいものです。手っ取り早く気分をハイにするにはスポーツが一番でしょう。しかも健康にもいいのですから。

 しかし、肉体は疲れてしまいます。たとえば2時間もジョギングをすれば、たいがいの人はへばってしまうでしょう。運動後の疲労の中に充実感はあるにしても、それだけで自由時間を埋めるのは困難です。

 知性の活動は固有の快感をもたらし、無疲労的です。もしこれが本当であれば、知的な趣味に手を出さないのは損というものです。無尽蔵に楽しみを引き出すことができるのですから。


幸福について―人生論 (新潮文庫)幸福について―人生論 (新潮文庫)
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ジャンル : ライフ

主体的な機能快の追求

 ドイツの心理学者カール・ビューラーが「機能快」ということをいっています。人間にはさまざまな機能が備わっていて、それを発現させること、使うことが快感なのだ、といいます。子どもが歩くのは、歩くのが義務だからではなく、歩くのが快感だからです。子どもがしゃべるのは、しゃべるのが快感だからです。逆に、その機能が発揮されない状態が続くと不満が鬱積し、心身は病むことになります。(渡部昇一『「人間らしさ」の構造』 参照)


 仕事でも能力は使用されますが、それはごく一部の能力です。

 最近はマニュアル化によって能力の使用が押さえられる傾向にあります。長年培った職人的な能力よりも、誰にでも同じような結果が出せるマニュアルを重視します。熟練労働者をリストラし、安い賃金で雇える若い労働者にマニュアルを与えて、仕事をさせます。そこでは能力の使用が極力抑えられています。とりわけ機械化やIT化とセットになった場合、そこで使用される能力はさらに限定的です。人間はコンピュータの入力係であり、チェック係であり、監視員にすぎません。

 スーパー、コンビニ、キオスクなどにはPOSシステムが導入されています。自分でお客さんの傾向を読み取って、仕入れを考える必要はありません。機械に売れた商品のバーコードを読み取らせ、在庫の商品を読み取らせれば、センターのコンピュータが売り上げの傾向を分析して、適切な仕入れを計画します。人間はコンピュータに仕える僕(しもべ)として働けばいいのです。

 これは極端な例ですが、現代の労働はこのようなコンピュータの付属品的な役割が増えています。

 かつてよくいわれたのは、労働の細分化の問題です。本来ひとまとまりであった労働が分業の効率化のために細分化され、一人が受け持つ仕事が単純作業の繰り返しになってしまい、労働は疎外されて、生きがいが感じられなくなった、といわれました。今ではそれに加えてIT化によってコンピュータの補助的な仕事が増えています。

 仕事には難易度の過不足の問題もあります。能力を使うにしても簡単すぎる作業や課題ならば、退屈をもたらします。かといって、むずかしければプレッシャーとなります。高度すぎて解決できないとか、自分のレベルを超えることが要求されれば、強いプレッシャーとなり、ストレスを生みます。(チクセントミハイ氏のフロー理論を参照)

 能力を使うにも、それが快と感じられるためには、ほどよいレベルというのがあるのです。それは自分の能力をちょっと上回る程度の難しさです。それがもっとも面白く感じられます。

 しかし、仕事の内容がいつも自分の最適なレベルに調整されているわけではありません。往々にして簡単すぎるか難しすぎるかして、労働者に余計なストレスをもたらします。先ほどの「労働者健康状況調査」では、「強い不安、悩み、ストレスがある」の理由として、「仕事の質の問題」をあげている人が30.4%もいました。

 自分が関心が持てる仕事につき、ほどよい量の仕事を任され、さらに最適の難易度の仕事を任されるなどと条件がそろうことは滅多にありません。仕事に機能快や生きがいを求めるのは困難な道だということです。

 それに対して、趣味・道楽は、自分の能力を使用する自由な活動です。仕事では得られない機能快を好きなだけ、最適な難易度で追求できます。仕事で使われない能力や潜在能力を使って、他者からの強制や制限もなく、自己本位に行えるのが道楽の世界です。

 音楽の鑑賞や絵画の鑑賞には享受能力を使用します。スポーツ観戦も読書も同じく、それらを享受する能力が必要です。自ら音楽を作ったり、絵を描いたりするにはさらに創造力が必要ですし、技能の習得も必要です。学問、研究では高い知的能力を使用します。肉体を使った趣味でも同様です。スポーツにはそれにふさわしい身体能力が必要ですし、それなりの知力も必要です。

 人間の能力は多様なので各能力に応じて趣味の分野が存在します。同じような能力を使っても、対象により様々な趣味が生まれます。

 仕事では得られない機能快の追求、しかも自発的で自由な追求が道楽にはあります。

「人間らしさ」の構造 (1977年) (講談社学術文庫)
渡部 昇一


楽しみの社会学
M. チクセントミハイ Mihaly Csikszentmihalyi 今村 浩明

楽しみの社会学
フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR) フロー理論の展開 (Sekaishiso seminar) パワー・オブ・フロー スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ 遊びの現象学
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テーマ : 楽しく生きる
ジャンル : ライフ

仕事と道楽は分けて考える

 企業の労務管理や人事管理は巧妙になっていて、本当は会社が管理しているにもかかわらず、さも本人が目標を立てて自己管理しているような体裁をとることがあります。

 たとえば、今月の目標とか本年度の目標を立てる場合、自分が好きなように目標を立てていいわけではありません。実際は前月や前年度を上回る設定にしなければならないのです。10%とか20%とかアップすると目標を立てなければ、やる気がないとして評価を下げます。そもそも上司によって却下されるでしょう。これは強制と同じです。会社が望むような目標を自分から進んで立てるのは、自主性の強要といってもいいでしょう。達成できなければ、もちろん批判されます。自分が立てた計画だろうと責められます。このような理不尽は会社ではままあることです。

 やたらと夢を語る経営者もいます。従業員にはこれは夢を持てる仕事だといい、夢があるのだからと低賃金で働くことを納得させます。夢をかかげていても内実はモチベーション管理と搾取の手法にすぎません。本来自主的であるべきものを強制しておきながら、さも自分から望んだように見せかけるのは、欺瞞というものです。社会学者の本田由紀このようなやりがいや自己実現をえさにして働かせるやり方を「<やりがい>の搾取」と呼んでいます。

 このように企業で働くことは、自主性をモチベーション管理よってうまく絡め取られるような側面があります。ことことは忘れてはなりません。

 最近は、自分の「好き」を仕事にする、などという言い回しが流行っています。そのため若者は自分の適性や興味が仕事に適合することとあわせて、好きな仕事、生きがいのある仕事を求める傾向が強くなっています。

 そのこと自体は悪くはないのですが、本来別のベクトルを向いているものを統合するのはむずかしいということは知っておくべきでしょう。運良く自分の「好き」に関係する仕事に就けたとしても、収入のためにどの程度まで自分を曲げて世間のために他人本位でやるべきかどうかと悩むときもあるでしょう。もともと両立しがたいものを統合しようとしているのですから、当然です。

 「要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります」と漱石は書いています。職業と道楽がどういう関係にあるのかを認識した上で、どこかに妥協点を見いだすしかありません。

 フリーランスやお店の経営も同じです。好きなことの追求と商売がしばしば矛盾します。

 アーティストではさらに先鋭化した形でこの問題があらわれます。自分を曲げて他人本位で作られたアートはアートではない、それは商品ではないかとアーティストは考えます。しかし、売れなければ食べていけません。自分を貫いて、なおかつアートで食べていけることはよほどの幸運です。

 仕事にも、人のためになることや、社会につながるといった面白さがありますが、原則的に他人本位で自分を曲げなければならないことは間違いありません。そして、自己本位の楽しみは趣味・道楽にこそあります。このことは割り切って考えておいた方がよさそうです。そうしないと仕事に過大な要求をして、不満ばかりを募らせることになりかねません。自己本位に追求したいことは仕事とは別にやればいいのです。これもまたB級遊民的な考え方です。

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夏目 漱石
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若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか
本田 由紀
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収入を前提としない自己本位の活動

 では、趣味・道楽とはどんなものでしょうか。その性質について考えてみましょう。

 趣味は、本業ではありません。本業以外の楽しみです。そこにはふたつの意味があります。ひとつは、収入にはならないということ。ふたつめは、楽しみであるということです。

 B級遊民は、必要なだけの仕事もします。それはお金を稼ぐためです。それ以外の時間で趣味を楽しみます。そして趣味は収入にはなりません。趣味と実益を兼ねるといういい方があるように、趣味は収入を前提とはしていません。例外はありますが、原則的に趣味は収入を得ることを前提としない楽しみです。

 趣味には、もうひとつの特性があります。趣味は自己本位だということです。

 職業は他人本位であり、道楽は自己本位であると、夏目漱石は『道楽と職業』の中で書いています。

 分業が進んだ社会においては、仕事とは他人のためにするものです。自分が消費するものを作っているわけではありませんし、自分が受けるサービスを自分で提供しているのでもありません。すべて他人のためです。他人のためになるからこそ、それが社会的な価値=交換価値を有し、現金収入となります。

 だからこそ収入が得られる仕事は他人が気に入るような種類の仕事でなければなりません。他人が望むように働かなくてはならないのです。そうしなければ社会的な価値=交換価値を生み出しません。そこに喜びを見出すこともあるでしょうが、仕事であるからには嫌なことを強いられたりもしますし、自分を曲げなければならないこともあります。理不尽な上司もいれば、理不尽な客もいます。それに耐えるのが仕事というものです。

 「すべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである」と漱石は書きます。仕事が楽しくないのは当然です。

 それに対して趣味・道楽は基本的に自分のためにする活動です。その活動の種類やできばえが他人の気に入らなくてもいい。基本的には自分が楽しければいいのです。誰かに命令されることもなければ、強制されることもありません。もちろん人から評価されればうれしいし、それを励みにすることはあります。しかし、原則として自分が好きでするのが趣味・道楽です。「いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ない」のです。

 しかし、道楽を仕事にしてしまうと、他人本位に行わなければならないのために、楽しい道楽が苦痛になります。「その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています」(同)

 漱石は、自分が主体となって自分がコントロールできることが面白さには不可欠であると考えています。これは重要なポイントです。仕事であっても、自分が主体となってコントロールできれば面白さを感じやすいのです。主体性、自己管理、自立性といったものが、やる気を引き出します。主体性は生きがい、やりがいの要素です。

私の個人主義 (講談社学術文庫 271)
夏目 漱石
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夏目 漱石
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テーマ : 楽しく生きる
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暇つぶしや依存症ではない

 趣味、道楽は暇つぶしや時間つぶしとは違います。

 暇つぶしとは、できてしまった空き時間を適当な活動で埋めてしまおう、消費してしまおうという行為です。B級遊民はそんなどうでもいいような活動でつぶしてしまうために自由時間を欲するのではありません。趣味の中になんらかの豊かさを求めています。暇つぶし、時間つぶしを全否定するつもりはありませんが、暇つぶしのような時間の使い方は趣味の本道ではありません。

 暇つぶしは閑適でもありません。閑適にはゆったりとその時間を楽しむ積極性がありますが、暇つぶしは空いた時間をつぶすだけの単なる「時間の消費」です。つまり暇つぶしには時間そのものを退屈なもの、やっかいなものとみなす発想があります。趣味と暇つぶしではこのように時間に対する心的な構えが基本的に違います。

 自由な時間を空き時間、退屈な時間、無駄な時間と考えるのは、金にならない活動は無駄であると考える勤勉主義や効率主義の発想です。効率主義は効率的に利益を生むことがよいことであり、それに反したことは無駄なこと不合理なこととして排除しようとします。このような考え方においては、閑適も道楽も否定されるのは当然です。

 閑適や道楽にはそれ自身に価値があります。自足的なものです。退屈や暇つぶしと一括りにして、ネガティブにとらえられるべきものではありません。

 趣味・道楽は依存症とも違います。

 依存症とは、何らかの対象(物や行為)に、生活や人間関係を破壊するほど過度におぼれることです。はたから見れば趣味のために仕事を変えたり、結婚しないことも多いB級遊民の生き方は依存症に見えるかもしれません。

 しかし、B級遊民は趣味のために体を壊すことはしないし、激しい浪費や借金で破産することもありません。そのような破壊的な生活をするのがB級遊民ではありません。生活の諸要素の中で趣味の優先順位が高いだけです。病理としての依存症とは違うとあえて主張しておきます。

 道楽と書くと、「どうしても酒色・ばくちなどにふけること」(大辞泉)というニュアンスが強くなります。そのため依存症のイメージがまといつきます。しかし、本書ではあくまでも「本業以外のことに熱中して楽しむこと。趣味として楽しむこと。また、その楽しみ」(大辞泉)という意味で使います。

 それならば、趣味と書けばいいだろうと思われるでしょうが、趣味だと言葉が新しくて、「閑適」「知足」とバランスが取れない感じがします。ということで、三大原理としては「道楽」を、通常の使用においては趣味という言葉を多く使用することになります。

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やめたくてもやめられない―依存症の時代 (新書y (184))
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道楽こそB級遊民の神髄

 そもそもB級遊民が自由時間を欲するのは、自分の好きなことをしたいがためです。仕事よりも趣味・道楽を中心にした生活をしたいからです。だからこそ自由時間が必要なのです。

 なかには「自分は閑適だけで十分だ。とくに趣味はないし、のんびり暮らせればそれでいい」という人もいるでしょう。閑適を楽しむだけならば、特に何をするでもなくくつろいでいるだけでいいかもしれません。季節を楽しむいろいろな工夫をし、自然に親しむのもいいでしょう。

 しかし、残念ながら人間はそれだけの生活には飽きてしまいます。人間はその本性として活動がしたいのです。ただゆったりとくつろいでいるだけの生活には耐えられません。閑適を賛美した漢詩人たちも琴、読書、囲碁などの趣味を楽しむ自分の姿を歌っています。陶淵明の『郭主薄に和す 其の一』には「交わりをやめて閑業に遊び、臥起に書琴を弄ぶ」とあります。陶淵明の琴には弦が張られていなかったといいますが、彼の詩を読む限りは琴を楽しむ様子が語られています。そして詩作はたんなる趣味を超えた天職といえるほどの活動でした。

 『方丈記』を書いた鴨長明はその晩年を四畳半の草庵で暮らしています。持ち物としては「すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。傍に箏、琵琶、おのおの一張を立つ。」とあるように、読書、琴、琵琶を楽しみとしていました。もちろん長明も著作活動を行っていたわけで、これがライフワークとなっていました。

 このように閑適生活に趣味はつきものです。むしろ趣味こそが生きがいという人こそが「遊民」としては正統派です。陶淵明や鴨長明を遊民と呼ぶのは強引すぎるとの意見もあるかもしれません。しかし、彼らは決して求道的な宗教家ではありません。知足の中での閑適生活を楽しみ、趣味を楽しもうとする姿勢ははっきりと見て取れます。われらの先達としての資格は十分にあります。いえ、むしろ彼らの生き方を大衆化したものがB級遊民なのです。

方丈記 (岩波文庫)
鴨 長明
4003010019


方丈記―付現代語訳 (角川ソフィア文庫)
鴨 長明
4044031010

テーマ : 楽しく生きる
ジャンル : ライフ

求める生活水準は自分基準

 では、この大量消費社会である現代日本においてはどの程度の生活水準で足るを知ればいいのでしょうか。

 知足あるいは少欲知足と聞くと、とてつもなく貧しい生活をしなければいけないような印象を持つかもしれませんが、そうではありません。私は清貧のすすめをするつもりはありません。おすすめするのはせいぜい「ちょい貧」あたりです。

 さきほどの「収入≧支出」という式を思い出してください。たんに収入に見合った生活をすればいいのであって、どの程度まで生活レベルを落としなさいという具体的な目標があるわけではありません。

 労働時間を減らして収入が減ったのなら、それに見合った支出で暮らせばいい。そこに「知足」という考えを持ち込もうというのです。サラリーマン世帯の平均収入がいくらだから、自分もいくら欲しいなどと、外部に基準を設けるのではなく、自分の生活が成り立つなら、それでいいと考えます。

 収入が減り生活水準が落ちたとしても、それによってただちに不幸になるわけではないことは、ダウンシフターやスローライフの実践者が証言しています。親しい人たちとの交流、趣味の充実、閑適による心身のゆとり、知足による心の平安など別の豊かさを手に入れることができます。

 このことは「適応」の理論によっても説明できます。収入が減ったことで一時的に不幸に感じることがあっても、すぐにその状態に慣れてしまいます。収入がばかりではありません。事故や病気にあった人でも中長期的には幸福度は落ちることはありません。幸福感はそうしたことからは影響を受けにくいのです。

 低い収入、所有物の少なさ、生活の不便さなどに人間が不幸を感じるのは他人と比較するからです。他人と比べて収入が少ないから、家が小さいから、持ち物が少ないから、貯金が少ないから、不幸であると考える他人規準の思考にこそ不幸の原因があります。

 意識を向ける先を変えてください。別のことに喜びを見いだしてください。自由であること、自分が自分をコントロールできること、好きなことができること、リラックスして生きること、などに喜びを見いだせば、所有の競争に参加しなくてもすみます。

 つきあう階層やグループを変更することも効果的です。ダウンシフターはダウンシフターと、スローライフ実践者はスローライフ実践者と、B級遊民はB級遊民とつきあえば、比較に苦しむことは減ります。あなたが劣っているとか負けているとか評価されることはなくなります。

 もちろん人間の生存に必要なだけの収入は必要です。衣食住の不足するようではつらすぎるでしょう。これに欠けることがあればそれは不幸な生活といえます(それも人によるでしょうけど)。あまりにひもじい生活では閑適に憩うこともできないでしょう。

 日本国憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあります。これでは具体的なことはわかりませんが、ただ生存するだけではなく、やはり健康でありたいし、そこそこ文化的でもありたいでしょう。

 最低限の衣食住は満たしたいし、電気、水道、ガス、電話のある生活はしたいものです。テレビを見たり、音楽を聴いたりもしたい。本も読みたい。ある程度の便利さと精神的な飢えを満たすための消費もあってしかるべきでしょう。こうした消費の増加はそれなりに幸福を増進します。

 しかし、基本的にはそこまででいいのではないでしょうか。その程度のことで足るを知ればそれほどお金はかかりません。

 昔の人はこれよりはるかに低いレベルで生活していました。ガス、電気、水道なんて完備していません。テレビもステレオもありません。パソコンもエアコンもありません。もちろん自家用車もありません。それが当たり前でした。それに比べて現代人の生活レベルははるかに高いところにあります。

 だから何もない昔の生活レベルまでさげるべきだとは思いません。現在の日本で生活するのですから、知足といってもそこそこの生活水準は求めてもよいでしょう。しかし、求めるのはそこそこの水準です。

 ギリシャ語にアウタルケイアという言葉があります。自己充足と訳されます。意味は「いたずらに多きを求めず、また僅かなことをよしとするのでもなく、程々にて自ら足れりとすること」(岩崎允胤『ヘレニズム ローマ期の哲学』)です。

 B級遊民はなにも清貧を美徳とする思想ではありません。ほどよく満足できれば、それ以上は望まずにあとは好きなことをするだけです。知足とは主観的なものです。自分がよしとすればよいのです。

 このレベルの生活をしましょうと具体的な目標の生活レベルを決める必要はありません。人間は慣れる生き物です。低い生活レベルなら低いレベルなりに「これで十分じゃないか」という気持ちで暮らすことが大切です。そう思えるかどうかでB級遊民に安らげるかどうかが決ってきます。

ヘレニズム・ローマ期の哲学―西洋古代哲学史〈2〉 (西洋古代哲学史 (2))

ヘレニズムの思想家 (講談社学術文庫)
岩崎 允胤
4061598368


テーマ : ロハス&エコロジーライフ
ジャンル : ライフ

欲望には果てがない

 私たちがより多くの収入を得たがる、もうひとつの理由は、欲望の果てのない性質にあります。

 「年間所得が一〇万ドル〔約一六〇〇万円〕以上の世帯では、二七%が本当に必要とするモノを何でも買う余裕はないと述べ、二〇%近くが基本的な生活必需品に所得のほとんどすべてを支出すると述べている。七万五〇〇〇ドル超、一〇万ドル以下の階層では、三九%と三三%が、それぞれ同じように答えている。全体としては、世界でもっとも富んだ国の人口の半分は、実際に必要なモノを何でも買う余裕はないと言っているのである。しかもそれは人口の半分の貧しい人びとのことではない」(『浪費するアメリカ人』)

 ありあまるほどの物を所有しているのに、まだ足りないと考えるのが人間です。欲望には際限がありません。貪欲にとりつかれた人は果てしなく欲望を追求します。仏陀が教えるように、足ることを知らない人はお金があっても心は貧しいのです。

 欲望の果てしのなさを「適応」という性質によって説明したのは、心理学者のブリックマンとキャンベルです。「宝くじで巨額の富を手にした人も、最初に幸福度が一気に上昇するだけで終わってしまうことがわかりました。数ヵ月もたてば幸せな気持ちもしぼみ、もとのもくあみ」(ダニエル・ネトル『目からウロコの幸福学』オープンナレッジ)というわけです。

 なにかを手に入れたとき、私たちはとても喜びます。しかし、しばらくすると、そのことに慣れてしまいます。あれを手に入れれば、幸せになれると信じて奮闘して、手に入れて、つかの間の喜びの後に、以前の気持ちに戻ってしまいます。そうしてまた次の幸福を求めて奮闘をはじめます。

 幸福は馬の前にぶらさげたニンジンのようなものです。ニンジンが欲しくて必死に走ると、ご褒美にニンジンがもらえます。ニンジンを食べて一時的に満足できても、すぐにおなかが減ってしまいます。また次のニンジンを求めて必死に走ることになります。

 経済学者リチャード・イースタリンは実験によりこのことを確かめました。

 被験者は高価な消費財(家、車、テレビ、海外旅行、プール、別荘など)のリストから、理想的な生活に必要なものとすでに自分が所有しているものをチェックします。そして16年後に同じリストをチェックします。

 16年後、所有しているものは平均1.7アイテムから3.1アイテムに増えました。理想的な生活に必要だと考えるものも、平均4.4アイテムから5.6アイテムヘと増えました。

 自分が所有するものが増えても、理想の生活のために必要なものもまた増えるので、生活にはつねに何かが足りません。先の方に見えている理想の生活に来たつもりでも、理想の生活はさらに先に見えています。

 人間の欲望にはきりがありません。必死にがんばって何かを手に入れても、また別の何かが欲しいのです。結果的には幸福度は変わりません。

 欲望はそういうものだから、次々と次の欲望を満たすために、行動すればいいという考え方もあるでしょう。しかし、それでは際限のない渇望の中に自分を置くことになります。一時的な満足感はあっても、すぐに慣れてしまい、やがて渇きに苦しみます。欲望を追いかける生活は永遠に続く苦しみです。

 足るを知る人は、終わりのない競争も果てしのない欲望の追求も愚かなことだと考えます。すでに自分が持っているものに満足することで、心の平安を得ることができるからです。いつまでも渇望を抱えて突き進むのと、今満足して暮らすのと、どちらを望みますか。

浪費するアメリカ人―なぜ要らないものまで欲しがるか
ジュリエット・B. ショア Juliet B. Schor 森岡 孝二
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目からウロコの幸福学
ダニエル・ネトル 山岡 万里子
4902444488


テーマ : 幸せな生活
ジャンル : ライフ

終わりのない競争

 日本は、物質的な豊かさと幸福度との間にもはや関連がなくなっている時代に突入しています。それにもかかわらず私たちは相変わらずより多くの所得を求め続けています。それはなぜでしょうか。

 ひとつの理由は、競争心です。人間には、他人との比較によって満足感を得ようとする傾向があるからです。

 Science日本版にドイツの研究チームによる研究の記事が出ていました。「最近の神経科学的な研究によると、人間は報酬をどれだけ手に入れたかという絶対的な量よりも、相対的に他人よりどれだけ多いのかを重視することがわかった」そうです。

 私たちは意識的無意識的にかかわらずある階層やグループ(会社の同僚など)と自分とを比較しています。その対象となるグループを準拠集団といいます。その準拠集団の中に残りたい、下には落ちたくないと思っています。一方で、その準拠集団の中でより上位にいきたい、できれば上の階層にあがりたいと思っています。

 そのため、少しずつでも収入を増やそうとしますし、物資的に豊かな生活を実現しようとするのです。そうした努力の集積として、結果的には、全体が少しずつ上昇することになります。

 森の植物が太陽の光を得るために上へ上へと伸びていくのと似ています。背の高い樹木は他の樹木よりもいい条件で光を得ようと進化しました。みんなが背の低い木であればそんなに大きくなる必要はないのですが、まわりがみんな大きくなるので、自分も負けるわけにはいかないのです。

 他人に勝ちたくて、人は競争をします。その結果、社会が豊かになり、みんなが豊かになれれば、それでいいという考えも確かにあります。しかし、先ほど見たように、ある程度豊かになってしまえば、あとはいくら所得が上昇しても幸福度があがるわけではありません。

 そして、この競争には終わりがありません。やがて競争の参加者は疲れてしまいます。うつ病が増え、薬物による依存症が増えているのは、競争の激化のせいです。これは命をすり減らす戦いです。赤い女王の国にいる限り、薬を使っても競争に参加しなければなりません。

豊かさとは何か (岩波新書)窒息するオフィス 仕事に強迫されるアメリカ人

テーマ : スピリチュアルライフな生き方
ジャンル : ライフ

豊かになっても幸福は増えない

 物質的な豊かさを追い求めて日本人はがんばってきました。しかし、むやみに消費を拡大しても幸福は増大しない、という事実があります。

 「消費を続けると、あるところから便益が逓減するということが研究で裏づけられている。これらの研究は、豊かな国々において個人資産水準は上昇しつづけているのに、自分を『たいへんに幸せ』と考える人の割合が増えていないことを示している。つまり、貧しい人々の幸福感は所得向上とともに高まる傾向があるが、ひとたび一定の所得水準が達せられると、幸福感と所得向上のあいだの正の相関性が失われることを示している。」(『ワールドウォッチ研究所 地球白書 2004-05』クリストファー・フレイヴィン編著、家の光協会)

 このような現象を、経済学では限界効用逓減の法則と呼んでいます。「ある財の消費量を増加させていくとき、一単位増えることによって得られる主観的な満足度」は「しだいに減少するという法則」です。(大辞泉)

 たとえば、まんじゅうを食べているとしましょう。最初の1個はおいしい、2個目はちょっと飽きます。3個目はもう食べきれません。つまり、まんじゅうのおいしさはどんどん減っていくということです。まんじゅうそのものは客観的に変わらなくても人間の側が効用を感じなくなっていくわけです。

 当然、最初は効果があります。貧困状態から豊かさが増していけば、飢餓から解放され、住居により暑さ寒さから守られ、安全が得られ、医療も受けられるようになって、幸福度は増します。しかし、徐々に幸福度は頭うちになってしまい、最後は収入が増えても幸福度には影響しなくなります。

 アメリカの「平均所得と幸福感」に関する調査によれば、1957年から2002年までの間に平均所得が3倍近くになっているにもかかわらず、平均満足度の向上が見られません。ある一定水準まで所得が増えてしまうと、平均所得が3倍になっても人は幸せになるわけではありません。インフレを考慮しても、物資的豊かさと幸福の間にはリニアな関係はありません。ちなみに1957年のアメリカの平均所得は8000ドル程度でした。

 日本はすでに1950年代のアメリカよりも豊かです。収入を増やしたところでより幸せになれるわけではない時代にだいぶ前から突入しています。日本人の平均所得の向上や消費の増大はもはや幸福感にはかかわりがありません。がんばったところで「幸福感」という点では得るものはないのです。

地球白書〈2004‐05〉―ワールドウォッチ研究所地球白書〈2006-07〉―ワールドウォッチ研究所地球白書 [2007-08] 都市の未来 ―ワールドウォッチ研究所


テーマ : ロハス&エコロジーライフ
ジャンル : ライフ

失われた古代からの知恵

 閑適を目指しあまり働かないのであれば、当然、収入は少ない。少ない収入でも心豊かに暮らすには「足るを知る」ことがなによりも大切になります。

 足るを知るとは、自分が所有しているわずかなもので足りている、十分であると考えることです。広辞苑には「現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと」とあります。

 「知足」の思想は古来より存在し、日本人には馴染み深いものです。

 ブッダが入滅する際に残したとされる『遺教経(ゆいきょうぎょう)』に「知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦意に称わず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。」とあります。「足ることを知っている人は地べたに寝ていても安楽です。足ることを知らない人は天の宮殿に住んでいても心は満たせません。足ることを知らない人はお金があっても貧しいのです」という意味です。

 このお経は鳩摩羅什(くまらじゅう)により漢訳されたものです。詳しくは『仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっすいせつねはんりゃくせっきょうかいきょう)』といい、禅宗で重んぜられています。 

 日本で作られたお経である『往生要集』には「足ることを知らば貧といへども富と名づくべし 財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」とあります。同じ意味ですが、より簡潔に表現されています。

 『老子』の三十三章にも「足るを知るものは富む」とあります。仏教と同じ意味です。辞書に引用されている文章はたいがいが老子のこの一節です。

 『論語』の学而十五には「子(し)貢(こう)曰く、貧にして諂(へつら)うなく、富みて驕(おご)るなきはいかん。子曰く、可なり。いまだ貧にして道を楽しみ、富みて礼を好む者にしかざるなり。」とあります。「子貢がいいました。貧乏であってもへつらわず、豊かであってもおごらないのはどうでしょうか。先生が答えられました。よろしい。しかし貧乏であっても道を楽しみ、豊かであっても礼儀を好むのには及ばないだろうね。」

 論語においては、直接に「知足」を語ってはいませんが、貧しくても品位を失わない、仁を失わないという意味の言葉が出てきます。広い意味で知足をふくんでいると見ていいでしょう。

 このように仏教、道教、儒教のいずれにも知足の思想はあらわれています。いずれも日本に多大な影響を与えたインド思想であり中国の思想です。当然、日本に輸入された後も知足の考えは日本人の中に浸透しました。仏教や儒教について書かれた本には知足や節約についての言及がありますし、茶道には「知足安分」という言葉も残っています。

 思想だけに限定されません。知足は節約という形で日本人の生活の基調をなしていました。日本人は、紙や木をうまく使い(広い意味での太陽熱の利用です)、さまざまな生活財をリサイクルし、過剰な消費をできるだけ避けるような生活の仕組みを作り上げました。江戸時代にはこのような生活スタイルはほぼ完成していました。

 そんなに昔ではなくとも以前の日本人はものを大切にしていました。一度購入したものは徹底的に使いきったものです。古くなったからとか新製品が出たからと買いなおすことなどありませんでした。ほんの数十年前まではそうした生活スタイルが当たり前であったのです。

 こうした道徳、美徳を日本人が失うのは、明治維新以降のことです。最初はゆっくりと進みました。文明開化の西洋化により工業化が進み、欧米の消費文化も少しずつ浸透しました。かつての呉服屋が百貨店になり、新しい西洋風ファッションや美容に関心を示す婦人たちが消費文化の主役となりました。

 こうした流れは太平洋戦争で一度チャラになるのですが、戦後、急速に復興します。とりわけ日本人の消費スタイルに変化が現れるのは、1955~1973年の高度経済成長期においてです。1956年に経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、1959年には「消費革命」という言葉が登場しました。

 アメリカ流の浪費戦略論(マーケティングの一種)も輸入されて、メディアを通じて日本人全体の意識を変化させ、国民の欲望は急激に増大しました。

 日本人の意識は変わりました。日本人はものを大切にすることをやめました。まだまだ使えるものであっても、さっさと廃棄して新製品を買うようになりました。古来よりの知足という道徳は消えました。「もったいない」の心を失いました。アメリカの後を追うようにして日本は世界有数の高度消費社会となったのです。

遺教経に学ぶ―釈尊最後の教え老子 (中公文庫)
論語 (岩波文庫)往生要集―地獄のすがた・念仏の系譜 浄土への往生を苛烈なまでに求めた時代と人びとの心 (NHKライブラリー)

テーマ : ロハス&エコロジーライフ
ジャンル : ライフ

科学的に見た閑適の効用

 現代の科学は閑適の思想をどう考えるでしょう。はたして支持してくれるでしょうか。

 長時間の労働や緊張がストレスを生み、病気の原因になることはよく知られています。カナダの生理学者、ハンス・セリエが1936年にイギリスの『ネイチャー』誌に「各種の有害要因によって引き起こされる症候群」という論文を発表します。これが「ストレス学説」が世に知られる最初となりました。 ストレスがかかると、体にある一連の症候群が起こるとセリエは主張しました。

 今ではストレスが、うつ病、胃・十二指腸潰瘍、過敏性腸症候群、虚血性心疾患、自律神経失調症など多数の病気を引き起こすことがわかっています。

 ストレスの原因をストレッサーといいます。暑さ、寒さ、騒音、化学物質、地震などの天災は物理化学的ストレッサー。病気、怪我、疲労、睡眠不足、細菌、ウイルス、寄生虫などが生物学的ストレッサー。人間関係、精神的な苦痛、職場環境、学校環境、結婚、育児、離婚、昇進、失恋などは社会的精神的ストレッサーと分類できます。

 現代日本の労働現場でとくに問題になるのは、疲労、睡眠不足、人間関係、精神的な苦痛、職場環境などでしょう。

 そしてこれらのストレスに対する一番の薬は休息でありリラックスです。ゆったりした気持ちで毎日を過ごすことができれば、ストレスが原因の病気にはなりません。つまり閑適こそが妙薬なのです。

 驚くべきことに、人間にはもともと活動量が決まっていて、それを使い切ったら終わりだという説もあります。

 「どんな生物でも(人間もむろんです)エネルギーでバンパンに膨らんだパックパックを背負って生まれてきます。この生命力は体重1gあたりのカロリーによって決まります。エネルギーをつかい果たせば、命が尽きます。」(『なまけることの幸せ』

 この説にしたがえば、私たちが働けば働くほど、命はすり減ります。人々に働く美徳を教える勤勉主義、労働至上主義は恐るべき死の思想です。かつて左とん平は「人生はすり鉢だ、俺たちはすりこぎだ」と労働者の悲哀を歌いました。(『とん平のヘイ・ユウ・ブルース』)どうやらあれは真実だったようです。

 私たちが長生きするには、物質代謝を押さえなければなりません。「物質代謝をおさえてエネルギーを節約する行動は、のんびりと、どんな状況にも冷静であることです。チャンスがあれば、なまけることやブラブラすること」です。

 ダウンシフターやスローライフは活動過剰の現代の生活に身の危険を感じた人類が示す生物的な防衛反応なのかもしれません。

なまけることの幸せとん平のヘイ・ユウ・ブルースストレス解消



テーマ : 健康生活!
ジャンル : ライフ

ほどよく隠れて生きる

 二十九歳で科挙(中国の官僚の登用試験)の進士科に合格して以降、エリートコースを歩んできた白居易は四十四歳で江州司馬に左遷されます。仕事は閑職。ほとんど働かずとも収入が得られます。もともと閑適を愛する白居易はこの安寧を楽しむことができました。この閑適の気持ちよさこそ自分の帰るべき故郷だといいます。

 もともと向上心が強く、官僚としての出世を願っていた白居易としては多少の強がりも混ざっていたでしょう。「故郷が長安だけであろうはずはない」という部分に中央への未練が読めます。

 しかし、閑適を好む傾向は晩年になるにつれて強まっていきます。やがて中央に戻った白居易は再び出世街道を突き進み、刑部尚書(法務大臣)にまで登りつめますが、閑適を歌った詩はかえって増えていきます。

 白居易は晩年に太子賓客分司東都という名誉職についています。これもかなりの閑職だったようです。このときの自分の生活を「中隠」と呼んで、詩を作っています。長いので最初の部分だけを訳出しておきましょう。


   中隠

 大隠は町の中に住み、
 小隠は丘の陰に入る。
 丘の陰はとても寂しく、
 町中はとてもやかましい。
 それよりも中隠となって
 うまく隠れながら閑職につく方がいい。
 仕事に出るでもなく、隠遁するでもなく、
 忙しくもなく、まったくの閑でもない。
 心と力を疲れさせないし、飢えと寒さもない。
 一年中、公務はないのに、
 月ごとの給料は出る。

 なぜ町中にいる方が大隠で山に隠れるのが小隠なのでしょう。普通に考えると、逆です。隠遁者は人里を離れて山の中に草堂をむすび、瞑想をするなど修行をするものです。しかし、すでに悟りに達しているのであれば、俗事に心を乱されることはないので山林に隠れる必要はありません。町の中に住んでいても隠でありえます。この一節は日本でも「大隠は市に隠る」という諺となって残っています。

 白居易はその中間がいいといいます。ほどよい田舎に住み、閑職につく。そこで悠々自適に暮らすのが「中隠」。そんなうまい話はめったにないでしょうが、ひとつの理想ではあるでしょう。(こんなことを日本の公務員にやられたら、許せません…)

 七十五年の長い生涯にあって、官僚生活に忙殺される期間はあったにしても、多くの時間を安穏と暮らすことができた白居易はじつにうらやましい存在です。ただ私であればもっと若い時期にさっさと引退してしまったことでしょう。そのあたり白居易の出世への志向の強さを感じます。

 二人の詩人だけを取り上げましたが、中国には閑適を歌った詩は多くありあす。定番の詩題といえます。漢詩は日本人の教養でもあったわけですし、日本の漢詩人も多く存在します。だからこそ閑適は日本人にもなじみの感覚であり、憧れであったのです。

 かつての日本人は今よりもずっとのんびり暮らしていました。江戸時代の武士は暇すぎるほど暇であったし、江戸の庶民もたっぷりある時間をうまく楽しんでいました。閑適を愛すのはなにも特別なことではありませんでした。一部の虐げられた人たちをのぞけば、日本人の働きすぎが指摘されるようになるのは戦後の高度成長期以降のことです。その起点は明治政府の富国強兵と殖産興業にあったにしても、たかが百数十年のことに過ぎません。

 ちなみに漱石もまた多くの漢詩を残しています。大正五年八月に書かれた「無題」とする漢詩の一節に「去来を賦せんと欲して未だ田を買わず」とあります。賦とは感じたことをありのままによむ詩のこと。つまり「陶淵明のように帰去来の辞を書こうと思っているが、まだ耕すべき田を買っていない」という意味です。漱石はこの年の十二月九日に胃潰瘍で亡くなっています。四十九歳でした。

 神経衰弱や胃潰瘍に苦しみ続けた漱石ももっとゆったりとした生活をしていれば長生きできたかもしれません。が、子どもが六人もいたのでは、そうもいかなかったのでしょう。一家を支えなければならない責任がまじめに考えすぎる漱石に重くのしかかっていました。

白楽天100選 (NHKライブラリー―漢詩をよむ (129))文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし

漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか? (光文社新書)
漢文の素養   誰が日本文化をつくったのか? (光文社新書)

テーマ : 文学・小説
ジャンル : 小説・文学

朝寝は健康にいい

 もう一方の閑適詩人の雄といえば唐代の白居易(白楽天)です。白居易の詩集「白氏文集」は「諷諭詩」「閑適詩」「感傷詩」「雑律詩」の四つに分類されています。「諷諭」とは政治批判、社会批判の詩のことです。「雑律詩」はその他という意味です。日本では「閑適詩」と「感傷詩」が愛好されています。

 白居易の数ある詩の中でも「香炉峰下、新たに山居を卜し草堂初めて成り、偶々東壁に題す」が最も好まれている閑適詩です。清少納言の『枕草子』にもこの詩にかかわるエピソードが出てきます。白居易の詩がいかに日本人の教養として定着していたかがわかります。ここでも訳出した上で全体を引用します。

   香炉峰のふもと 山住まいのための草堂を建てて、たまたま東の壁に題す

 日は高く眠りは足りているのに、起きるのはなお物憂い。
 小さな家で布団を重ねているので寒さを恐れることはない。
 遺愛寺の鐘の音は枕をかたむけて聴き、香炉峰に積もる雪はすだれをあげて見る。
 ここ匡盧は名声から逃れるによい土地だ。
 司馬は老後を送るのにふさわしい官職だ。
 心安く身が安寧であればこれこそ私の帰るところ。
 故郷が長安だけであろうはずはない。


 香爐峰下新卜山居草堂初成偶題東壁

 日高睡足猶慵起
 小閣重衾不怕寒
 遺愛寺鐘欹枕聴
 香爐峯雪撥簾看
 匡廬便是逃名地
 司馬仍為送老官
 心泰身寧是帰処
 故郷何獨在長安

 白居易はたっぷり眠った後も暖かい布団の中にとどまっています。ぬくぬくとしたままに鐘の音を聞き、雪山を見ています。なんともゆるやかで静かな時間です。

 こんなに怠惰な生活をしていたら、心身に悪いのではないかと心配になりますが、朝寝は体によくて、早起きは体に悪いという研究があります。

 「ロンドンのウエストミンスター大学の学者は、遅くとも午前七時二〇分までに起きなければならない人々の唾液を採取し、ストレスホルモン、コルチゾン値を検査しました。すると朝寝妨できる人々とくらべてかなり数値が高かったのです。」(ペーター アクスト、ミヒャエラ アクスト・ガーデルマン『なまけることの幸せ』集英社)「早起きに伴うストレスは一日中残るばかりか、健康に悪い影響を及ぼす、と報告されています。」(同)

 どうやら「早起きは三文の得」ということわざは、勤勉主義を広めるためのスローガンだったようです。だまされてはいけません。

 睡眠、入浴、食事などの1次活動も時間をかけて楽しめば閑適の楽しみとなります。日常の些細な行いも時間に追われて急いですませるのと、たっぷりある時間の中でリラックスして行うのではまるで別の体験です。白居易の心境は、満員電車にすぐに飛び乗らなければならない平日とゆっくりしていられる週末の朝との違いを思う浮かべればわかりやすいでしょう。

枕草子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)白楽天100選 (NHKライブラリー―漢詩をよむ (129))

なまけることの幸せ
なまけることの幸せ

閑適のうた―中華愛誦詩選 陶淵明から魯迅まで (中公新書)

詩人と人生 閑適の巻 (NHKシリーズ NHK文化セミナー・漢詩をよむ)

テーマ : **暮らしを楽しむ**
ジャンル : ライフ

至福の生活態度としての閑適

 自由時間そのものに積極的な価値を見いだし、のんびりと何もしない時間に憩うことは、けっして特異な生活態度ではありません。たとえば中国には閑適思想というものがあって、閑を楽しむことはひとつの文化となっています。古い中国の詩である漢詩を読めば、そのような生活態度がいろいろな形で現れてきます。

 漢詩人としては東晋時代の陶淵明が閑適思想の代表です。漱石は『草枕 』の中で陶淵明の「飲酒 其の五」の有名な一節、「採菊東籬下 悠然見南山」を王維の詩とともに引用しています。陶淵明の「帰去来辞」を揮毫(きごう)した漱石の書も残っているところを見ると、陶淵明は漱石が深く愛した詩人なのでしょう。

 この短い引用だけでは雰囲気が伝わらないので、訳出した上で全体を引用しておきます。

   酒飲みの歌 その五

 さすがに山中に隠れることはできず、人里に粗末な家を構えた。
 しかし役人の乗る馬車のやかましい音はしない。
 どうしてそんなことがあるのかとお尋ねか。
 心が遠く世俗を離れれば、住んでいる場所がそのまま隠遁の地となるのだよ。
 家の東の垣根のもとに咲く菊を摘み、
 南の山を悠然と眺める。
 山の気は夕方にすばらしい。
 鳥たちが一緒に飛んで、ねぐらに戻ってくる。
 こうした風景の中に本当がある。
 それをうまく言おうと思うのだが、もう言葉も忘れてしまった。


 飲酒 其五

 結廬在人境
 而無車馬喧
 問君何能爾
 心遠地自偏
 採菊東籬下
 悠然見南山
 山気日夕佳
 飛鳥相與還
 此中有真意
 欲辨已忘言

 陶淵明は四十一歳のときに都合十三年にわたる官僚生活をやめて故郷に戻り、農耕生活を始めています。今ならさしずめ官僚生活をドロップアウトしたダウンシフターです。雑誌などで田舎暮らしのスローライフをはじめた元官僚とでも紹介されるそうな経歴です。

 陶淵明は農耕生活のかたわら閑があれば、書を読み、琴をもてあそび、酒を飲みました。「飲酒」はそうした晴耕雨読の生活からうまれた作品です。

 閑適とはたんに暇があることを指す言葉ではなく、ゆったりした時間の中でリラックスしていることを意味します。広辞苑では「(閑静安適の意)しずかに心を安んずること」となっています。この詩はまさにそうした気分があふれています。

 たっぷりある時間の中で自然に接している詩人は、真実はこうした閑適の生活の中にあるのだといいます。しかも「飲酒」というタイトルからすれば、陶淵明は酒を飲んでほろ酔い気分でいます。なおのこと言葉を忘れたことでしょう。

 陶淵明の詩の中で閑適と対比されているのは、官僚生活です。忙しく気苦労ばかりが多い官僚生活を陶淵明は嫌っていました。家族の窮乏を救うためにしかたなく仕官することもたびたびありましたが、つねに故郷での農耕生活、自然の中での閑適を夢見ていました。

 四十一歳で官僚生活をやめるきっかけとなった出来事というのが面白い。ある日、陶淵明が勤める役所に巡視官がやって来ることになりました。役人が陶淵明に正装して迎えるように指示すると、「五斗米(わずかな給料)のために腰を折って、田舎の子どもに接することはできない」と辞職してしまいます。

 変にプライドが高く、なんとわがままな、とも思いますが、辞職するためのきっかけとして利用したようにも見えます。望郷の念を募らせていた陶淵明にしてみれば、渡りに船の出来事だったのではないでしょうか。

 このときの作品が有名な「帰去来の辞」です。「さあ帰ろう。ふるさとの田園はまさに荒れようとしている。帰らないわけにはいかないだろう」ではじまるこの作品は日本で最も愛されている漢詩のひとつです。

 本当のところ陶淵明の生活にどれほど自由時間があったのかわかりません。農作業が大変だと書いている詩も多いし、その一方でのんびりと過ごしている閑適の詩もあります。農繁期と農閑期による違いが大きいでしょうし、たとえ農繁期であっても基本的には太陽が出ている朝から夕方までしか働けないのですから、現代のような深夜残業が続く長時間労働などはありえません。そう考えると陶淵明を閑適詩人の代表と捉えてもそう間違ってはいないでしょう。

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ジャンル : ライフ

自由時間を持たない者は奴隷である

 B級遊民は、自由時間を愛しています。なるべく多くの自由時間を求めます。そして自由時間の中で憩い、暇な時間を楽しむことを望みます。のんびり生きるということです。リラックスをして生きたいということです。これがもっとも基本的な生活信条です。

 では、自由時間と何でしょうか。

 総務庁の「社会生活基本調査」では国民の生活活動を3つに区分しています。1次活動の「睡眠、食事など生理的に必要な活動」、2次活動の「仕事、通勤など社会生活を営む上で義務的な性格の強い活動」、3次活動の「余暇活動など各人の自由時間における活動」です。それぞれに費やす時間を1次活動時間、2次活動時間、3次活動時間と呼びます。

 ここで定義されている3次活動時間が自由時間です。睡眠や食事の時間はふくみません。洗顔、入浴、身支度、化粧などの身のまわりの用事の時間もふくみません(これらは1次活動です)。通勤や仕事の時間もふくみません。家事、介護・看護、育児、買い物の時間もふくみません(これらは2次活動です)。その残りの時間が自由時間です。

 自分が好きな活動のために振り分けられる時間。好きなように処分してよい時間。だからこれを可処分時間ともいいます。

 『それから』の代助はこの自由時間が誰よりも多い。なにしろ働かずとも生活費が入ってくるのですから、労働のための2次活動時間は存在しません。実家に生活費をもらいに行くための時間を通勤時間ととらえてもよいですが、毎日のことではないのですから、無視できるほどの短時間です。

 自分が養っている家族もいないので家族サービスの時間なども必要ありません。家事労働も婆さんと書生がやってくれます。なにかの残り時間というよりも食事や睡眠以外のほとんどすべてが自分のために使える自由時間です。さすがは真性の高等遊民というべきでしょう。

 ちなみにニーチェはこのように書いています。「あらゆる人間はあらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人とに分かれている、なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のためにもっていない者は奴隷であるから。そのほかの点では、たとえ彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである。」(『人間的、あまりに人間的』)

 すさまじいほどの自由時間主義です。眠る時間を含めるとニーチェの基準を満たすことはできないので、起きている時間だけを考えるとしましょう。睡眠時間を7時間とすると、起きている時間は17時間。自由時間として確保すべき三分の二は11時間強です。残りの6時間弱で、食事やお風呂、労働などを振り分けなければなりません。食事やお風呂など生活に必要な時間が3時間かかるとすると、労働時間は3時間弱。週休二日に換算するにしても一日の労働は4時間に抑えなければなりません。それ以上働く人は奴隷なのです。しかも家庭サービスも地域活動もいっさいなしでこの時間ですから、こうした時間も含めれば労働時間は2時間くらいになるでしょう。ニーチェ、恐るべし。

 しかし、ニーチェは食事時間などを自分の時間と考えていたかもしれません。これとは違う計算であった可能性もおおいにあります。

 B級遊民も自由時間至上主義者ですが、必要最小限は働かなければなりません。何時間働くかは人それぞれでしょうし、さまざまなタイプのB級遊民がいてしかるべきですから、何時間以下ならB級だとかの定義はしません。家事も自分でせざるを得ないことも多いでしょう。これも有閑階級ではないのだから仕方ありません。しかし、なるべく自由時間を確保することを考えるのがB級遊民です。

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テーマ : スローライフ
ジャンル : ライフ

現代を生きるシンプルな価値観

 B級遊民の生活信条は、「閑適」「知足」「道楽」の三つです。

 ゆったりと自由な時間に憩う「閑適」。今あるものに満足し、無駄な消費をしない「知足」。ただひたすらに好きなことを楽しむ「道楽」。

 この三つの価値の実現を目指してシンプルに生きていくことがB級遊民の願いです。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

高等遊民とB級遊民

 高等遊民とB級遊民の違いをまとめてみましょう。

 第一に、高等遊民は裕福な親から経済的に援助してもらっていて働く必要がありません。対して、B級遊民は家庭にそれほどの経済的な余裕はなく生活に必要なだけは働かなければなりません。この点が一番の違いです。

 第二に、高等遊民は高い社会階層に属した高学歴のエリートです。対して、B級遊民は高学歴であることは要求しません。社会全体が高学歴化しているので、ちょっと学歴があったとしても高等と名乗るのもおこがましいでしょう。

 第三に、高等遊民はとても知的で高級な趣味を持っています。対して、B級遊民はただ好きなことを優先したいというだけで、とくに高尚な趣味を誇るわけではありません。かつての学生にみられた教養主義も不要です。

 まとめると、経済的にも学歴的にも文化的にも高等ではないという意味でB級なのです。

 これだけだと、B級遊民は高等遊民の劣ったものという位置づけになってしまいますが、いえいえB級遊民にはB級遊民なりの価値観があります。それを次の章で説明したいと思います。

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テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

『それから』の代助とギリシャ哲学

 代助の考えの中で注目すべきは「職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種」という部分です。代助はありあまる自由時間を使って思索する生活は上等で有意義で、労働よりも上だと考えています。代助を有閑階級のひとりにすぎないといってしまえばそれだけですが、彼自身は自分のことを贅沢三昧の消費に現(うつつ)をぬかすただの有閑階級とは違うと思っていたようです。

 それにしてもいったいどこからこんな思想が出てくるのでしょうか。おそらく代助が学生時代に読んだ哲学書のせいではないかと私は推測しています。漱石はそんなことは書いていませんが、彼の考えには古代ギリシャ哲学の伝統的思考が反映されているように思えます。

 古代ギリシャの哲学には労働よりも哲学を上位におく傾向が強く見られます。額に汗して働くよりも、真理についての認識活動である観想(テオーリア)を人間らしいものと考え、賛美します。

 たとえば、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、人間の本質は高度な精神活動にあるとして、実践するようにと勧めています。なぜなら観想の生活にこそ永続的な幸福があり、幸福こそ人間の求めるものだからだそうです。

 このような観想の生活は暇がなければできません。だからアリストテレスは「幸福は閑暇に存すると考えられる」と書いています。その反対の非閑暇的な活動としては軍事と政治をあげていますが、一般的な労働である生産活動など眼中にない点に注意してください。

 しかも観想の生活は軍事と政治に費やした残りの時間の暇つぶしではありません。アリストテレスは幸福な生活とは(その究極が観想の生活ですが)「真剣であり、遊びではない」といいます。このあたり代助の考えによく似ています。

 現代日本人の一般的な感覚からすれば、まず労働があり、その余暇として哲学書を読むなどの趣味の時間があると考えます。読書や思索などというものは、パチンコなどの暇つぶしよりは高尚ですが、たくさんある余暇活動(レジャー)のひとつにすぎません。アリストテレスの思想は順序が転倒しているように見えます。

 しかし、アリストテレスにはアリストテレスなりの理屈があります。いや、理屈というよりもそう考えるのが自然である理由があります。

 古代ギリシャは奴隷制の発達した社会でした。生産のおもな担い手は奴隷でした。奴隷の所有者である自由な市民は政治に参加し、戦争をします。肉体労働を中心にした生産活動はもっぱら奴隷の役割でした。都市部に関していえば、アテネの人口の三分の一は奴隷であり、召し使いなどの家内奴隷が中心でした。

 こうした社会制度が人々の思考に反映し、労働蔑視の傾向を生み、またその哲学にも反映し、アリストテレスの観想生活賛美の哲学へと結晶しました。アリストテレスは「奴隷は生きた財産である」(『政治学』)とも書いています。このような大哲学者も奴隷制により成り立つ社会制度を当然のことと考えていたとは驚きです。

 代助は奴隷制度に賛成しているわけではありません。日本での古代ギリシャ思想の紹介においては奴隷制を無視する傾向があるので、そんなことも考えてもいなかったでしょう。彼はただ親の財産で苦労なく暮らしていける境遇から古代ギリシャの労働蔑視の哲学を違和感なく受け入れることができたのです。

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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

夏目漱石の描いた高等遊民

 B級遊民という言葉は「高等遊民」をもじってつけました。ここで紙数をいただいて、高等遊民とはいかなるものかについて多少の蘊蓄を語ることにいたします。

高等遊民とは、明治時代の無職の大卒者のことを指します。彼らは金持ちの子弟であり、高等教育機関=大学を卒業したにもかかわらず就職もせずに、裕福な親の世話になってのらくら暮らしていました。夏目漱石の小説『それから』の主人公、代助がその代表的な存在です。

 なぜ高等遊民が生まれてしまったのでしょうか。理由は単純で、就職口が見つからなかったからです。代助と同世代である明治44年卒の大卒者は50%以下の就職率でした。それでしかたなくブラブラしていたわけですが、ブラブラできるだけの後ろ盾もありました。高等遊民の家庭は上流階級が多かったのです。なにしろ明治時代の大学進学率は3%と低く、金持ちでなければ子弟を大学に進ませるなどということは基本的にはありませんでした。

 現在の日本でも大卒後ブラブラしている連中はたくさんいるのはご存知のとおりです。しかし、彼らは高等遊民とは呼ばれずに、即物的に「大卒無職」あるいは「大卒ニート」と呼ばれています。

 この違いは何かと言えば、やはり大卒者の数の圧倒的な違いからきます。なにしろ現在の大学進学率は50%弱。約半数の子どもが大学へ進む時代となっています。かつては学士様と呼ばれた大卒者も今ではフツーの存在になってしまいました。もはや学士の肩書きを「高等」と呼ぶ人はいません。

 当然、大卒者の家庭もフツーの家庭です。中流の家庭の子どもがフツーに大学にいきます。つまり、高学歴化かつ高等教育の大衆化の時代になりました。

 ちなみに大学進学率は、大正時代で4%、昭和に入っても戦前は5%程度にすぎませんでした。大学の大衆化はここ数十年の出来事です。それが今ではその気になれば誰でもなれる実に気楽な存在です。少子化が進んだ現在では大学の方から入学をお願いしてくる始末です。

 話を高等遊民に戻して、小説「それから」を題材にして、その生活ぶりを見てみましょう。

 「それから」の主人公・代助は大学を卒業しても就職せずにブラブラして暮らしています。ブラブラといっても、親の家にいるわけではありません。一軒家に家政婦として雇った婆さんといっしょに暮らしています。書生も一人出入りしています。仕事はしない代わりに、一日読書をしたり、音楽会へいったりして時間をつぶしています。

 ちなみに書生とは、一般の家庭に寄宿する大学生のことです。住居の一角に住まわせてもらう代わりに、家の手伝いなどをします。明治の中期あたりまでは、学生アパートなどあまりなかったようです。

 代助の兄の誠吾は父の関係する会社で重要な地位にあり、姉は外交官に嫁いで外国暮らしをしています。親のすねをかじっているのは代助だけです。月に一度、代助は実家に金を受け取りに行くのですが、たまたま居合わせた父の得と代助は対座することになります。

 代助の父は「お前だって、そう、ぶらぶらしていて心持ちのいいはずはなかろう」と説教を始めます。しかし、お金を得るための労働をすすめるわけでもありません。おそらく代助がそういうことを軽蔑していることを知っているのでしょう。さすがに明治の上流は違います。

 「月々のお前の生計ぐらいどうでもしてやる。だから発奮してなにかするがいい。国民の義務としてするがいい。もう三十だろう」

 さらにこうもいいます。

 「三十になって遊民としてのらくらしているのは、いかにも不体裁だな」

 それに対する代助の考えはこうです。

 「代助は決してのらくらしているとは思わない。ただ職業の為に汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考えているだけである。親爺がこんな事を云うたびに、実は気の毒になる。親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に月日を利用しつつある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き出しているのが、全く映らないのである。」

 彼の考えはほとんどの読者には予想外のものでしょう。

それからそれから (岩波文庫)高等遊民天明愛吉

テーマ : 文学・小説
ジャンル : 小説・文学

年収180万円を基準にする

 平成15年の勤労者世帯(いわゆるサラリーマン世帯)の1か月の平均収入は1世帯当たり524,542円。これには世帯主の他に配偶者などの世帯員の収入も含まれています。世帯人員が3.49人なので、一人当たり150,298円となります。

 単純に考えれば世帯人員×15万円が必要になります。自分ひとりだけで生活するなら月15万円の収入でいいのです。ボーナスでの所得は考慮していません。年収にすれば180万円。正規雇用であれば、かなり気楽な数字となります。

 しかし、そう単純にはいきません。4人で暮らしていても風呂やトイレはひとつあればいいし、たいがいの家電もひとつあればいい。もちろん、一人暮らしであれば冷蔵庫や洗濯機のサイズは小さくてもよいですが、価格は4分の1にはなりません。光熱費も同じく4分の1にはなりませんし、そのほかもろもろの経費も4分の1になるわけではありません。つまり、一人暮らしでは4分の1よりも多めにお金が必要なります。つまり一人暮らしは効率がよくありません。そのへんを考慮すると、一人の生活ではさらに上乗せ額が必要になります。

 もっともそれは普通の生活をするつもりならば、という条件での話です。好きなことを優先させて、わがままに暮らす、一人暮らしだからこそ月15万円で生活ができる、と考いたいと思います。

 一人暮らしであれば、どんなに生活費を切り詰めて質素に暮らしても誰も文句はいいません。どんなにいびつであろうと自分のライフスタイルに合わせたお金の配分をしてかまいません。家族からあれが欲しいこれが欲しいとせがまれることもないので、自分が必要だと思わないものはばっさり切り捨ててかまいません。扶養家族がいないのなら、遊興費も教育費も要らないし、生命保険もいりません。思いっきりシンプルな生活を目指して、家賃と食費も少なめにして、趣味だけにお金を使うのも自由です。

 そう考えると、月15万円、年収180万円ですら十分な収入であると私は考えています。足るを知るを心がけて無駄のない生活をするならば、これで足りないということはないでしょう。

 どんなライフスタイルを選ぶにしても、入ってくるお金の範囲内で生活することさえ守っていれば、「必要なだけ働いて、あとは好きなことをして暮らす」ことは現実的な話でありえます。たくさん働いてたくさん稼いでぜいたくな暮らしをするのも、少しだけ働いてあまりお金を使わずに好きなことをして質素に暮らすのも同じことです。問題はどのようなライフスタイルが自分にあっていると考えるかです。

 B級遊民が目指すのはあくまでも好きなことをして暮らすことにあります。好きなことをするためには必要最低限の収入があればよい。そのときの目安が月15万円、年収180万円です。生活する場所によりかかる経費は大きく違ってきますが、ここでは基準値としてとらえておいてください。

イギリス式月収20万円の暮らし方
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お部屋も心もすっきりする 持たない暮らし
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必要なだけ働くという思想

 B級遊民は遊んでいるだけではありません。ちゃんと働きます。しかし、それは生活に必要なだけです。生活に必要なだけ働いたら、あとの時間は自分が好きなことのために使います。

 では、どの程度の収入なら生活できるのでしょうか。なにか目安はあるでしょうか。

 原理的には、次の不等式が成り立ってしまえば、生活は可能です。

 収入≧支出

 収入と同等か収入以下に支出を抑えれば生活はできます。入ってくるお金の範囲内で生活できればなんの問題もありません。収入が少ないのならば少ない生活費で暮らせばいいのです。誰でもこんな簡単な原理はわかります。

 問題は、支出をどこまで押さえればいいのかということです。具体的にいくらの支出が必要でしょうか。

 それには、まず生活の単位を考えなければなりません。ここでは基本的に一人あたりの金額で考えていきます。それが基本の生活単位であるからです。それにB級遊民はおおむねシングル(独身者)であるだろうと仮定できるからです。

 短時間労働の仕事を選べば平均よりずっと少ない収入を覚悟することになります。そして、各種調査から見てみて、低収入と家族を持つことは両立しにくいのです。低収入でも好きなことをしたいという生き方は家族を養うという一般的な家父長的ライフスタイル(男性の場合)とは違う生き方です。

 そういうわけでB級遊民はシングルという前提での話となります。

 とはいえB級遊民と独身主義とはイコールではありません。結果的にそうなることが多いだろうという仮定に過ぎません。そこは誤解されては困りますので、念のため。

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スローライフはエコロジー志向

 一方、ヨーロッパではスローライフが流行っているようです。

 直訳すれば、「ゆっくりした生活」です。地域の産物を地域で消費し、自動車に頼らずに歩行を重視する社会を目指す生活様式を意味します。反グローバル化、エコロジー志向が思想的に含まれているのが特徴です。生活様式がそのまま思想の実践といった趣があります。

 そもそもスローライフはスローフードという言葉から派生しています。マクドナルドのようなファストフードは、効率的に育てられた画一的な食材を短時間で料理して素早く食べます。たいして、スローフードは、地元で採れる地域特有の食材を手作りで作り、ゆっくり食事するものです。

 イタリアで発生したスローフードが世界に広まり、特に日本ではおしゃれなライフスタイルといった意味も込めたスローライフという言葉で流行しました。

 有機野菜を使った外食がスローフードとして宣伝されていたり、ヨーロッパカントリー風の木製インテリアがスローライフとして紹介されていたりと、扱い方はたいがいスタイリッシュで商業的です。

 テレビや書籍では、都会でのサラリーマン生活をすてて、田舎暮らしをしている人がよく取り上げられています。田舎暮らし=スローライフというわけでもないのに、地方の物件をスローライフという名目で販売する不動産会社も増えてきました。それに呼応するように、地方都市がスローライフを宣言しています。キャッチコピーとしてはいささか手垢がついてきた印象です。

 私が考えるB級遊民はスローライフに一部は重なりますが、反グローバル化、エコロジー志向という思想性は皆無です。少なくとも私には本気で取り組もうという意図はありません。

 文明の利器も大好きです。自由な時間はたくさん欲しくても、なんでもゆっくりやろうというほどのこだわりはありません。冷凍食品もマクドナルドもまったく否定する気はありません。自由な時間を捻出するためには何でもありです。電子レンジも洗濯機もけっこうじゃありませんか。

 それにB級遊民というネーミングからして、おしゃれでキャッチーな使われ方をすることはありえないでしょう。

テーマ : スローライフ
ジャンル : ライフ

減速して生きる人たち

 アメリカにダウンシフターと呼ばれる人たちが増えています。

 ダウンシフターとは、ジュリエット・B・ショア教授の著書『浪費するアメリカ人』の中で言及された新しいライフスタイルを目指す人々のことです。「収入や支出を減らしても、ゆとりのある生活を選択する人」と定義できます。それまでの生活ではトップギアでがむしゃらに働いていてけれど、そんな生活はもうごめんだと自らセカンドあたりに減速して生活する人たちです。

 日本語では「減速生活者」。「降りる人」と訳している例も見たことがありますが、社会を降りることでやっと実現するライフスタイルという意味では、見事な意訳です。

 ジュリエット・B・ショア教授はこのように書きます。

「一九九〇年から一九九六年にかけての数年間に、アメリカの成人のほぼ五分の一(一九%)が自発的にライフスタイルを変え、収入が減るにもかかわらず正規の定年まで働く可能性を断ち切った。こうした人びとの半分以上、すなわち五五%は自分たちのライフスタイルの転換を恒久的なものだと考えている。そして、そのうちの大半(八五%)は自分たちの転換に満足している。意外なことに、減速生活者はとくに女性とは限らない。また、とても裕福とはいえない。そうした人びとのほぼ半分は、ライフスタイルを変える前の収入は三万五〇〇〇ドル〔約五六〇万円〕以下であった。」

 金持ちがもう十分稼いだから減速しようと考えているわけではありません。さほど収入が多くない層が減速しています。それほど働き過ぎのライフスタイルは生活を破壊すると考えられているのです。

 彼らはワークライフバランス(仕事と生活のバランス)を重視します。ダウンシフターが減速して得た「ゆとり」は自由な時間です。その自由な時間で人との交流、家族とのふれあい、自分の趣味を楽しむわけです。

 残念ながらというべきか、ダウンシフターという言葉は日本ではあまり知られていません。シフトダウンはそもそも自動車用語です。減速という邦訳も自動車のギアチェンジをまっさき想像させるので、交通規則を遵守してスピード違反をしない人と誤解されそうです。そのあたりに流行らない理由があるのかもしれません。

 言葉は流行っていないけれど、同じような価値観を持つ人は日本にも少なからずいるようです。
 2003年度労調協共同調査「若者はいま-新しいライフスタイルを求めて」は『収入と支出の双方を落としてでも自分らしい生活をしたいという、いわゆる「ダウンシフター」も5人に一人いる』と報告しています。

 この調査は34歳以下で都市部に住む大企業で働く高学歴層のホワイトカラー層を対象にしていますから、さきほど指摘した勤勉主義、労働至上主義の中で働いている若者たちです。約2割もの若者がそういう生活を望んでいます。少数派ではありますが、ひとつの勢力といっていいほどの数字です。

 しかし、彼らが実際にそのような生活を選択するかはどうかはわかりません。彼らはダウンシフターなのではなく、あくまでも願望を述べただけです。なにしろ日本は労働環境における自由度の低い社会ですから、高いリスクを負う覚悟が必要です。

 アメリカにダウンシフターが多くいるのは、住宅費が安く、土地が広いことも幸いしているのかもしれません。

 B級遊民とダウンシフターはある程度は重なります。しかし、B級遊民はトップギアからダウンシフトする人だけが対象ではありません。最初からローギアで生活していてもいいのです。それにB級遊民が自由な時間を欲するのは、遊ぶため、好きなことを追求するため、と考えています。ニュアンスの違いはかなりあります。

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4 成果主義の正体見たり
3 日本の現状を思い出させる

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だからB級遊民になります

 こうして日本の状況を概観してみると、好きなことをして暮らしたいという願望はどうしようもない甘えに思えてきます。実際、そうかもしれません。

 しかし、こんな社会にあって、のんびりと好きなことを優先させながら生きていく方法はないものかと探るのがこのブログのテーマです。こんなに硬直した勤勉主義、労働至上主義の日本にあって、そんな生き方を追求する人がいてもいいんじゃないでしょうか。

 生活に必要なだけ働いて、あとは好きなことをして生きていく。そんな生き方をする人をB級遊民とネーミングしたいと思います。

 もちろんB級遊民は夏目漱石の『それから』に描かれた高等遊民をもじったネーミングです。お金があるので働かないのが、明治時代に発生した高等遊民だとすれば、お金を稼ぎながらも好きなことを優先して暮らすのがB級遊民です。

 遊民というとネガティブな印象を与えるかもしれませんが、「遊」の字に積極的、肯定的な意味を含ませて、あえてそう呼びたいと思います。

 漢字学者の白川静は『遊字論』に「遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない」(『文字逍遙』平凡社)と書きました。B級遊民が神がかった存在だとはいいませんが、「遊」の復権がそろそろあってもいいでしょう。

 B級遊民と呼べる人たちが実際に何人いるかはわかりません。私としては、のんびりと好きなことをして生きてもいいじゃないか、そんな生き方だってあるんだよ、と提案をしたいのです。かなりわがままな生き方をしてもいいじゃないかといいたいのです。いわばB級遊民のススメです。

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寄り道ができない社会

 日本の生産性の高さからいえば、好きなことをして暮らすなんて簡単に実現できそうなのに、実際はむずかしいのが現実です。必要なだけ働いて、後は好きに暮らしたいと思っても、ほどよい労働時間の仕事を選ぶという選択肢がありません。

 今の日本には正規雇用の範囲で労働時間を自由に選べる会社はほとんどありません。フルに働くのでなければ、アルバイトやパートでの労働を選ぶことになります。ところがこの非正規雇用は労働条件とても悪いのです。各種保証はなく、低賃金、さらにいつ首を切られるかわからない不安定な身分です。

 それならば自分でいろいろな可能性を試してみればいいだろうという意見もあるでしょう。しかし、一度道を外れた人間に日本の企業はとても冷たいのです。失敗をしてもまた正規雇用で就職ができるならチャレンジもできますが、失敗が許されないことが大きなプレッシャーになっています。

 学校卒業から現在までの経歴に空白があるのは大きなマイナスです。とりわけ正社員の経験のない者は採用場面で大きなハンディを背負います。

 日本企業の多くは新卒一括採用をしています。高校や大学を3月に卒業して、4月に企業に入社して仕事を開始します。このコースから外れることは基本的にできません。新卒採用で就職できない人は、経歴に空白ができます。一度そうなると、本来の採用予定枠に入れてもらえません。そして、新卒採用から漏れてしまうと、なかなか正規のルートに戻ることは許されないのです。
学校を卒業したらしばらく好きなことをする時間を作りたいとか、自分探しの旅に出たいなんて希望は受け入れてもらえないのが、日本の雇用の常識です。

 就職氷河期で新卒採用されたかった多くの人たちが今でもフリーターをしています。彼らが就職しようとしたとき、たまたま企業の採用が減っていただけです。運が悪いだけなのですが、新卒でフリーターをはじめてしまうと、なかなか正社員にはなれません。

 何か失敗があるような人間も企業は採用したがりません。アメリカでは起業して失敗してもそれを肯定的に評価しますが、日本では起業して失敗すれば、「会社をつぶしたやつ」とネガティブに部に評価します。これでは怖くて自分を試すことができません。

 中高年にとって転職は危険な賭となっています。よっぽど能力がある人は別として、中高年でリストラでもされれば、なかなか仕事は見つかりません。よしんば見つかったとしても、年収はがくんと落ちます。アメリカのように転職によってどんどん条件をよくしていける人は少ないのです。

 実際に35歳から59歳までの男性の中高年の非正規雇用者はかなり増えています。1997年の68万8千人から2002年の116万4千百人へと、1.7倍に急増しました。中高年が一度離職してしまうと、正規雇用に戻るのは困難です。

 失業者を対象にした教育にも私は携わっていますが、ここでもやはり年齢差別の問題を実感します。若い人に比べて中高年は圧倒的に仕事を見つけにくいのは間違いないことです。おおかたの中高年にとって転職は生活の危機を意味します。

ルポ正社員になりたい―娘・息子の悲惨な職場
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ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る (宝島社新書)
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プロフィール

Author:Cozy
情報処理系講師、フリーライター。減速生活者にしてB級遊民。

Twitterはcozyoffです。
TwilogはCozy(@cozyoff)です。

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