スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『絵解き 菜根譚 一〇八の処世訓』 古の聖人や賢者と心を通わせ語り合う

絵解き 菜根譚―一〇八の処世訓
4639019467


 画:傅益瑤、書:李兆良

 中国の人生訓である『菜根譚』より108の言葉を選び、美人画家の傅益瑤が水墨画を描き、李兆良が章句を墨書してできたものに、英訳と日本語訳を付けています。

 菜根譚は禅を語りブッダの言葉を引用しており、仏教を基本思想としています。欲を少なく心を穏やかにすることこそが最高の価値であり、忠孝などの人間集団についての倫理は見られず、仕事をすることを勧めはしますが、出世への意欲も弱いようです。

 格言のような処世訓は多く見られますが、原理や道理を説くことはあまりしません。このあたりが仏教書とは違うところかもしれません。しかし、それは必ずしも欠点ではなく、菜根譚の親しみやすさであり読みやすさかもしれません。

 選りすぐりの言葉ばかりなので、引用したい箇所が多すぎて困りますが、とりわけ印象深い言葉をいくつか紹介しましょう。

 主義主張は高位高官の人をもしのぎ、学問教養は高尚このうえなくとも、修養にうらづけられた徳がなければ、つまるところ血気にはやった自己主張にすぎず、すぐれた文才も小手先のわざに堕してしまう。


 徳があってこそその言葉が生きてきます。名言も誰がいうかによって重みが違ってきます。徳もないのに偉そうなことをいうのはみっともないことです。

 水辺で釣糸を垂れるのは、はた目に風流な楽しみに見えても、魚の命を左右する権柄を手にしていることを知らなければならない。
 盤に向かって碁石を打つのは、いかにも上品な遊びに見えても、勝ち負けを争う心が動いていることを知らなければならない。
 趣味も多ければ多いだけ煩わしさも多いのだから、控えるのがよく、才能にしても多方面で発揮するよりは、自分の本性を知って一方面で生かすほうがよいのである。


 釣りは殺生だからよくないというのは江戸時代にもあった考えです。碁や将棋も争う心だからよくないというのはたしかにその通りでしょう。戦争のゲームをしてしまう自分はどれほどひどいかと反省させられます。徳にはほど遠いです。成長するわけがありません。

(略) いまの人の不道徳や不手際をあれこれあげつらうより、昔の人のりっぱな行いに思いをはせるほうがよい。


 まったくその通り。しかし、人の足らないところや失敗は目についてしまうし、つい批難してしまいます。腹をたてることもしばしば。そんなことに時間をつかうより読書をし、昔の賢人との付き合った方がいいようです。

 心はいつも清らかでなければならない。清らかであれば道理のほうから自然にわが心にやってくる。
 心はいつも充たされていなければならない。充たされていれば物欲がわが心に入り込むすき間はない。


 心が濁っているから道理がわからないのです。理屈を言ってもどこか説得力がありません。心が充実していれば、物欲にとりつかれません。空虚な心に渇望が生まれます。空虚な心を埋めようとつまらないことをはじめます。

 心が揺るがずに平静でありさえすれば、いつでも山中の緑陰にある心境でいられる。
 心をひろく持って万物を受け入れ育てはぐくむ心構えがありさえすれば、どこでも魚が躍り鳶が飛ぶような自由自在な心境になれる。


 平常心というのはむずかしいものです。ちょっと嫌なことが簡単に心は揺れ動きます。ハートオブゴールドを求め続けていますが、まったく実現しません。そして私は年老いていく。ニール・ヤング。

 千載一遇のめぐり逢いといったら、それは読書好きの良い友に出会うことである。
 生涯にわたる清らかな幸福といったら、それは一碗の茶をわかす炉からたちのぼる煙のように身を静かな環境に置けることである。


 将来、鴨長明のように方丈庵に暮らす生活をしてみたいという気持ちもあります。でも林の中の小屋となるとどれだけ不便でしょう。できれば図書館とスーパーの近くがいいとか言い出すと、とても実現できそうもありません。

 高位高官の地位にあっても、林中に隠棲しているようなおもむきを失ってはならない。そうあってこそ、ふさわしい風格というものがあらわれる。
 林中に隠棲していても、天下国家を論じるだけの見識を失ってはならない。そうでなければ、ただの世捨て人となってしまう。


 結構ニュースが好きで政治経済にもそこそこ興味のある自分にはこのほうがありがたい。それに世間への関心を失ったら、すぐにボケそうです。このあたり菜根譚が仏教思想とはちょっと違うところです。

 あばら屋ではあるが、日々詩を誦(しょう)し書を読んで古の聖人や賢者と心を通わせ語り合う。貧乏は辛い毎日であると誰が言えようか。
 一樽の酒ではあるが、天を幔幕とし地を敷物として独り宴をし、折々天地自然と一体化する。酔は禅の境地に違うと誰が言えようか。


 漢詩のような生活というのは憧れます。自然と一体となった穏やかな日々。しかし、実際にはできないでしょう。自分は田舎には向かないというのも経験的によくわかっています。でも、いつかそういう心境に近づけたら、と思います。

 菜根譚は仏教を基本としていると最初に書きました。こうやって引用してみると、仏教の厳しさはやや薄く、漢詩的な閑適の生活をよしとする傾向が見られることがわかります。そもそも仏教は酒は禁止されています。自然を楽しむという発想もありません。菜根譚の魅力がこの「ゆるさ」でしょうか。


菜根譚 (講談社学術文庫)
中村 璋八

菜根譚 (講談社学術文庫)
マンガ菜根譚・世説新語の思想 (講談社+α文庫) 20世紀 日本の経済人 (日経ビジネス人文庫) 菜根譚 (岩波文庫) こどもに伝えたい今も昔も大切な100のことば―みんなのたあ坊の菜根譚 20世紀日本の経済人〈2〉 (日経ビジネス人文庫)
by G-Tools
スポンサーサイト

テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『シンプル族の反乱-モノを買わない消費者の登場-』 三浦展

シンプル族の反乱
4584131813


 下流という流行語を作った三浦展氏。今度はシンプル族という若者像を提出しています。

 シンプル族の生活原理は3つ。

 1 物をあまり消費しない。ためない。
 2 手仕事を重んじる。
 3 基本的な生活を愛する。

 シンプル族が消費しないのはお金がないからではなく、消費生活に対するスタイルのせいです。そこが下流とは大きく違います。

 シンプル族の志向性は5つ。

 1 エコ志向
 2 ナチュラル志向
 3 レトロ志向・和志向
 4 オムニボア志向
 5 ソーシャル・キャピタル志向

 オムニボアとは雑食のことで文化的雑食、多くの文化を楽しむことだそうです。
 ソーシャル・キャピタルとは社会関係資本のことで、人間関係を重視することです。

 こうみると私はほとんど当てはまりません。どうやら私はシンプル族じゃなくて下流です。意欲のない貧乏に近いのかもしれません。

 そもそもシンプル族に当てはまる人ってどれほどいるのでしょう。著者はこういっています。

 私の調査経験からいって、団塊ジュニア以降の2割くらいがかなり純粋なシンプル族、4、5割が軽めのシンプル族であろう。


 多いですね。本当かよ、といいたくなりますが、個々の生活原理や志向性はそれなりの支持者がいそうですから、やはりそこそこはいるのかもしれません。 

 著者はマーケティング・アナリストなので企業向けにどんな製品を開発すべきかの提言もしています。シンプル族に人気のブランド、無印良品やユニクロになにかをプラスしたらどうか、と。本物感、大人っぽさ、楽しさ、明るさ、色気などなど。

 シンプル族のような人たちがどれほどいるかわかりませんが、私としては著者があげるそれぞれの志向性に面白さを感じました。バブル崩壊後にめばえてきた新しい価値観やライフスタイルのちょっとした紹介として軽く読むのがいいような気がします。シンプル族なんて言葉に囚われないのが吉です。


無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉 (中公新書) 幸福王国ブータンの智恵 ソーシャル消費の時代 2015年のビジネス・パラダイム (講談社BIZ) 「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略 (アスキー新書) 新・資本論 僕はお金の正体がわかった (宝島社新書)
by G-Tools

テーマ : 最近読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『論争 格差社会』 文春新書編集部編

論争 格差社会 (文春新書)
文春新書編集部
4166605224


 格差問題について言及したさまざまな論文、エッセイ、対談、鼎談などを収録しています。誰かと誰かが議論を繰り広げているわけではありませんが、格差をめぐる言論には様々なものがあることを知ることができる点は評価できるかもしれません。

 面白かった話をひろってみましょう。

 大阪大学教授の大竹文雄氏の統計分析による論文から。

 一般に資産の格差は年齢が低いほど格差は少なく、年をとるにつれて格差が広がるのですが、最近の傾向としては、30歳未満の層で格差が広がっていることが統計で示されています。これは特に若年者に広がる非正規雇用の増加による影響でしょう。

 また、高齢化により格差の大きな年齢層が増えたことで全体の格差が広がったとの指摘があります。つまり、高齢化が全体の格差を広げているというのです。

 稲葉振一郎、本田由紀、若田部昌澄の鼎談では「ニート問題」が日本では本来のイギリスでの定義を離れ、異常に数字を水増しされて問題化された事実が指摘されています。その水増しをして、一躍ニート論者として注目されたのが玄田有史氏です。

 ニートやフリーターが問題化すると、それを扱う行政法人の存在が正当化され、存続し、出版社は特集記事を組み、新書を出します。そこで執筆して儲ける人、儲かる出版者が出てきます。さらには、学会、NPO、市民運動と「ニート産業」はひろがっています。彼らにとって格差問題が食うためのネタになっているのです。(格差がないといっているのではないですよ)

 最後に、渡部昇一と日下公人の対談があまりに的外れでお気楽だったので紹介しておきます。

 対談は昔の金持ちはよかったという話に終始します。

 昔の金持ちは金持ちは簡単にできたという話では親から引き継いだ資産により利益を出すことが出来たことをことをさも金持ちの余裕ある金儲け話として語っていますが、これこそまさに機会の不平等の問題ですが、その問題性などまったく意に介さないところがすごいです。

 昔の金持ちが貧乏人の子どもを学校に入れてあげた話、戦争の出征時に多額の餞別を与えた話などを楽しそうにしていますが、最初から富の分配が適切になされていれば、施(ほどこ)しなど不要なことです。

 私などは金持ちが貧乏人に施す社会ではなく、最初から貧困を生まない社会、皆が自分の生活を支えていける社会が望ましいと思うのですが、渡部、日下両人は格差の存在を施しの美談によって正当化してしまいます。これはもう詭弁とかそういうレベルの話ではなく、価値観がまるで違うのでしょう。

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)
橘木 俊詔

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)
格差社会の結末 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢 労働ダンピング―雇用の多様化の果てに (岩波新書) 日本の経済格差―所得と資産から考える (岩波新書) 論争 格差社会 (文春新書) 新平等社会―「希望格差」を超えて
by G-Tools

テーマ : 最近読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『楽訓』 その3

 清福という言葉あります。きよらかな幸福、精神的な幸福という意味です。益軒はこの清福を重視します。

 清福ということがある。楽しみを好む人はかならずこれを知っていないといけない。これは識者の楽しむところで俗人は知らない。だからわが身に清福を得て大きい幸福があるのに、これを知って楽しんでいる人はまれである。


 普通の人は物質的な幸福を求めて騒がしく暮らしています。今より1割、2割裕福であれば、自分は幸福になれると思い頑張って働き、資産を増やそうとします。そしてその目標を達すれば、再び、今より1割、2割裕福であれば、と思います。足ることを知らなければ、もっともっという思いは際限なく続きます。

 清福は今ここに幸福の源泉があると知り、楽しんで暮らすことです。物質的な幸福という幻を追うように齷齪(あくせく)することはありません。

 貧賤で世にみとめられなくても、その身が気楽で、静かで、心に憂いがなければ、これを清福という。余暇があってしずかに書を読み古の道を楽しむのは、清福の大きな楽しみである。


 これはまさしく私がB級遊民の生活信条としていたことそのものです。知足、閑適、道楽がB級遊民の生活信条です。

 知足はすでに見たとおり益軒の重要な考えのひとつです。閑適については本書に次のような言葉が見つかります。「およそ閑のなかには楽しみがいつもある」「心が閑でないと楽しみが得がたい」。道楽についてはこの引用の後につづく部分でとりわけ読書と自然の楽しみについて書いています。

 およそ読書の楽しみとは、色を好まなくてもよろこび深く、山林に入らなくても心のどかに、富貴でなくても心ゆたかになることである。人間の楽しみでこれにかわるものはない。


 前回、「みずから善を楽しみ、人を救って善をするに越えた楽しみはない」という言葉を紹介しました。今度は読書を最高の楽しみのようにいっています。どっちが一番なんだよと、つっこみを入れたくなりますが、益軒が生涯にわたって読書を好んだことは間違いのない事実です。

 益軒は受動的に読書をするだけではなく、学んだことをまとめて著述をすることにも熱心でした。楽訓ではとくにふれていませんが、創造の喜びもまた益軒の重要な楽しみであったはずです。

 楽しみについて縦横に語る益軒ですが、自分が楽しみを得られるのも時代がよかったのだといいます。

 大君(徳川将軍)の御恵みによって、こういう太平の御代に生まれ、堯、舜の仁にあって、白髪になるまで戦争にあわなかった。これは大きな楽しみではないか。


 益軒には、パックス・トクガワーナ(徳川による平和)が自分の穏やかな生活を支えているという強い認識がありました。そして、徳川の統治がその統治の手段として儒教の普及をもたらし、長く続く知識人の時代を生み出したのです。貝原益軒はまさに江戸時代が生んだ知者のひとりといえるでしょう。

養生訓 ほか (中公クラシックス)
松田 道雄

養生訓 ほか (中公クラシックス)
坂村真民一日一言―人生の詩、一念の言葉 安岡正篤一日一言―心を養い、生を養う 人生の王道  西郷南洲の教えに学ぶ 地球が天国になる話 大学・中庸
by G-Tools

テーマ : 最近読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

『楽訓』 その2

養生訓 ほか (中公クラシックス)養生訓 ほか (中公クラシックス)
松田 道雄

中央公論新社 2005-12
売り上げランキング : 324757

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


 楽訓のすすめる人間関係は仁を基本としています。

 人の憂苦を思いやって、人の妨げとなることをしてはいけない。つねに心にあわれみがあって、人を救い恵み、かりにも人を妨げ苦しめてはならぬ。われひとり楽しんで人を苦しめるのは天のにくむところであって、自粛しなければならぬ。人とともに楽しむのは天のよろこぶ理であって、真の楽しみである。


 人と和すれば楽しく、人と仲たがいすれば楽しくはありません。それは誰でも知っているし、当たり前のことですが、いかにも益軒の円満な性格を反映した考えです。仏教の慈悲喜捨の考えにも近いようです。

 しかし、世の中には頭にくることが多いものです。他人の行動に腹が立ち、心おだやかでいられないことがしばしばあります。

 人が悪く生まれついたのは、その人の不幸である。あわれんでやらねばならぬ。こだわってうらみとがめ、みずからを苦しめてはならぬ。人が悪いからといって、自分の心の楽しみを失うのは愚かである。


 他人に腹を立て責めることは、自分が不快になることですから損です。くだらないことで腹を立てるのはさらにバカらしい。プラグマティズム(功利主義)的な発想ですが、納得できます。ショーペンハウアーもいうように、朗らかな性格が一番です。腹を立てやすい人はそれだけ不幸です。わかっていても、人はなかなか怒りから抜けられませんが、いつも心がけておきたいことです。

 益軒は富貴と貧賤についても言及しています。

 君子は足ることを知って貪らぬゆえ、身は貧しくても心は富んでいる。古い言葉に「足る事を知る者は心富めり」とあるとおりだ。小人は身が富んでも心は貧しい。貪りが多く飽くことを知らぬからである。それゆえ、ただこの楽しみを知って貧賤を気にとめず、富貴を願わぬ計りごとをすべきである。老いては、いよいよ貪らず、足ることを知って貧賤を甘受するがよい。


 今あるものい満足をしていれば心はおだやかです。ない物を欲しがるところに苦しみが生まれます。他人の富貴をうらやむことも苦しみです。どこからが貧しくどこからが富んでいるのかが問題なのではなく、現状に対して自分がどう思うかが問題です。やはり少欲知足は生きる秘訣じゃないでしょうか。

 最近は歌の歌詞でもドラマでも夢だの願いだのを強調しすぎています。足ることを知ることの大切さが語られることがほとんどありません。古来からの聖人の道にもう少し思いをいたしたほうがよいと思うのですが、どうでしょう。
 
 益軒は分ということもいっています。

 分に安んじて、分外をうらやんではならぬ。分外を願う人は楽しみがなく、憂いが多い。禍はここからおこる。愚かというべきだ。


 あんまり分を強調されると違和感を覚えます。分によって自分を納得させる発想は、職業や社会階層が固定的だった江戸時代の人らしい発想といえるでしょう。

 益軒は他人の不幸について意外なことも書いています。

 世の中には自分ほども幸福でない人が多い。自分より下の人を見て足ることを知り、分に安んじ、外を願わなければ、憂いなく楽しみ多く、禍がない。また極貧の人も、人おのおの生まれついた分があることを知って、分に安んじて、天をうらやんだり人をとがめたりしてはならない。


 自分より不幸な人を見て、足ることを知るというのは、ちょっと残酷な気がしますが、たしかに人間にはそういうところがあります。ニュースで人の不幸見ると、自分でなくてよかったと安心します。もちろん益軒が言っているのは他人の不幸を楽しめということではありません。自分の状態に満足するひとつの方法としていっています。心穏やかであるための心のテクニックといったところです。

 もしわが身に不幸があったら、古今の大きな不幸にあった人のそれに、自分の不幸をくらべてみると、自分の不幸はそれほどでもなくなり、うらみがなくなるだろう。これはつたない計のように聞こえるだろうが、いにしえの賢者の教えである。これをやってみると効果のあることが多い。この計はすてがたい。


 今生きている人ではなく歴史上の人物などに対してなら、いやみがなくていいですね。

 ゴーギャンがこんなことをいっています。「苦しいときは、自分よりもっと不幸なゴッホという男がいたことを考える」。ゴッホにとって喜びの源泉ともなり苦しみの源泉ともなったゴーギャンがいうから深い言葉になります。

 私もゴッホのことを考えると涙が出そうになります。そしてゴッホ展で彼の最晩年の絵を見たときの強い印象が思い出されます。あの異様に生々しい絵が彼の不幸を生々しく伝えてくるようでした。

 益軒は不幸な人をあわれむべきだともいいます。

 余財があったら、こういう貧しい人にはほどこしをして救い、自分も楽しみ、人も楽しませるがよい。人間の現世の楽しみは、みずから善を楽しみ、人を救って善をするに越えた楽しみはない。


 益軒は慈善を人間の楽しみの最上においています。慈善活動をしたことがないのでよくわかりませんが、益軒は私欲から離れること、善をなすことをかなり重視していたことがわかります。

 彼は様々な研究をし、多くの本を残しました。医学だけではなく、興味は多様な分野に及んでいて、博物学的な関心があったとも言われます。それを本に残すことは、自分が楽しみ、読者を楽しませることでもあったのでしょう。しかし、慈善活動らしきことを実際にしていたのかどうかはわかりません。

 現代ならば、慈善とボランティア活動のすすめといったところでしょうか。社会制度の問題はそれとして、人が助け合うことが一番の楽しみなのだと益軒は考えたのです。なかなかそういう心境に達せそうにありませんが、覚えておきたいと思います。

(つづく)

テーマ : 最近読んだ本
ジャンル : 本・雑誌

プロフィール

Author:Cozy
情報処理系講師、フリーライター。減速生活者にしてB級遊民。

Twitterはcozyoffです。
TwilogはCozy(@cozyoff)です。

当ブログへのリンクはご自由に。

名言集および格言集
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。