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知的好奇心は人間らしい快楽

 人間が知的好奇心を満たすことを好むのは、人間の生物として特徴です。

 進化の過程で動物は外界の情報から危険を察知したり、獲物のありかを知ったりするようになりました。とりわけ人間は、世界がどうなっているかを知的に理解し、想像力を働かせることによって、より柔軟な行動が取れるようになりました。知的好奇心と想像力は生き残るために有利な能力だったのです。

 神経経済学者のジョージ・ローウェンステインによると、好奇心は「知りたいと思っていることと現に知っていることのギャップ、すなわち『情報のギャップ』に気づくところから生じる」そうです。(グレゴリー・バーンズ『脳が「生きがい」を感じるとき』日本放送出版)

 世界についての不完全な知識より完全な知識の方が生きるにはより有利でしょうから、知識を更新することはとても重要なことなのです。自分の知識に何か間違いがあると気づいたら、即座に訂正しなければなりません。そして、そのように知識を訂正した個体ほど生き残りやすかったのです。

 しかし、人間において知的好奇心は本来の目的から離れてしまいました。知的活動は、もはや生きることとは独立した楽しみとなっています。

 趣味の世界における知的好奇心の例をあげましょう。

 鉄道マニアは電車についての膨大な知識を持っていて、電車の車両のわずかな違いにも気づきます。彼は新しい情報に好奇心を示し、すぐに飛びつきます。そしてより完全な知識を得ようとします。「ある特別な事柄について知れば知るほど、自分の無知に気づくこととなり、その認識がさらなる好奇心を誘発する」(同前)からです。

 知的好奇心を満たすことには快感が伴います。ですから、「好奇心は中毒になりやすい性質のもの」(同前)です。そこにマニアやオタクが生まれる原因があります。科学の世界も同じく知的好奇心にとりつかれた人たちが生み出したものですが、社会にとってはどうでもいいような分野でのマニアの世界も同じ原因により生み出されました。

 もちろん誰もがマニアやオタクになるわけではありません。たいがいの人は、ある程度のことがわかったら、それで満足して熱は冷めてしまいます。好奇心は人を中毒にもしますが、適当なところで知的好奇心に歯止めをかけることも理性の働きです。

 どちらがいいというわけではありません。とことんやりたい人は一つの道を追求すればよいし、そうでない人はいろいろな趣味に手を出せばよい。自分の個性に従って、自分なりの好奇心の追求をすればいいのではないでしょうか。

 道楽は道を楽しむと書きます。道を一筋に追求する楽しみもあれば、好奇心のおもむくままにあちこちに首をつっこむ道の楽しみ方もあるのです。

 ちなみに、白川静によれば「道」という字は、異族の首を刎ねて、邪霊を払う呪具としてかかげて、未知なる地に踏み入ることを意味しています。「その生活圏を外に開くことは、ときには死の危機を招くことをも意味する」(『文字逍遙』)。

 探求の道は気楽に楽しむにしてはいささか物騒なようです。好奇心にかられてひとり未開の地にのぞむ人は邪霊に襲われないように気をつけてください。


脳が「生きがい」を感じるとき
グレゴリー バーンズ 野中 香方子 Gregory Berns
4140811250


文字逍遥 (平凡社ライブラリー)
白川 静
4582760465

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知的な活動は疲れない

 人様が好き勝手にやっている趣味に対して、どれが上等でどれが下等であると優劣をつけるのは野暮というものですが、ショーペンハウアーは『筆のすさびと落穂拾い』でこのように書いています。

 「人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかの形で見たがるものである。けれどもこの点で最大の満足が得られるのは、何かを仕上げること、作ることである。籠を編むもよし、書物を著すもよい。特に一つの労作が自分の手で日に日に成長し、やがて完成するのを見るということからは、直接的に幸福が与えられる。こうした働きをもつものは芸術作品とか著述とかである。いや普通一般の手工業でさえ、こうした働きをもっている。とはいえ労作が高級であればあるほど、享楽も高尚であることはいうまでもない。」(『幸福について』橋本文夫訳、新潮社)。

 頭を使わず何も残らないドミノ倒しよりも、油絵を描いたり、短歌でも作った方がより高級な趣味でしょうし、満足度も高いでしょう。ショーペンハウアーがいうように楽しみにも高級なものとそうでないものの違いは確かにあるようです。ギャンブルや飲酒などは趣味としてはレベルが低く、悪い意味での道楽に分類されるのも当然です。

 ショーペンハウアーは続けます。「重要な、偉大な、まとまった労作を生み出すだけの能力を自覚した才能の豊かな人は、この点からみて、いちばん幸福である」。おそらく『意志と表象としての世界』を書き上げた自分自身のことをいっているのでしょう。ここまでくると自慢話として割り引いて聞いた方がよさそうです。

 B級遊民はそこまで求めません。もっと大衆化したレベルにあるからこそB級なのです。それこそ趣味の範囲でよろしいという軽いスタンスが欲しいところです。

 より知的な活動ほど上等であり、それが可能なほど幸福であるという考えはアリストテレスに起源があります。知性(理性的本性)こそが人間の最高の本性であり、その知性を充分に発揮することが徳であり、幸福であると彼は考えました。カール・ビューラーの言葉を使えば、知性の活動こそが機能快というわけです。

 「知性の活動は--まさに観照的なるがゆえに--その真剣さにおいてまさっており、活動それ自身以外のいかなる目的も追求せず、その固有の快楽を内蔵していると考えられ(この快楽がまたその活動を増進する)、かく、自足的・閑暇的・人間に可能なかぎり無疲労的・その他およそ至高なる人に配されるあらゆる条件がこの活動に具備されていることが明らかになってみれば、当然の帰結として、人間の究極的な幸福とは、まさにこの活動でなくてはならないだろう。」(『ニコマコス倫理学』アリストテレス、高田三郎訳、岩波書店)

 アリストテレスによれば、知性の活動=哲学は労働ではありません。かといって、遊びではないし、暇つぶしでもありません。真剣に行われる閑暇的な活動です。一般的な用語で言えば、趣味、道楽でしょうが、あまりに高尚すぎて凡人が近づけないほどの(至高なる人には可能な)人間の究極的な幸福です。ここまでくるとわれわれとは無縁ですが、究極の姿、理想型としてはこうなるようです。

 今の引用の中に「無疲労的」とありました。頭を使ってなぜ疲れないのかと不思議に思いますが、「脳は疲れない」とする研究者もいます。脳科学者の池谷裕二は『海馬/脳は疲れない』で「脳はいつでも元気いっぱいなんです。ぜんぜん疲れないんです」と発言しています。「脳が止まってしまったら、体肢も五臓六腑もぜんぶ動きがストップします。寝ているあいだも脳は動き続けて、夢を作ったり体温を調節したりしています。一生使い続けても、疲れないですね。疲れるとしたら、目なんですよ。」

 頭が疲れたな、と思っても実際には脳は疲れていないそうです。知的な趣味に疲れたら、目を休め、体を少し動かしてやれば、また続きができます。

 肉体を使った趣味にも魅力はあります。スポーツクラブで運動した後に入るジャグジーバスの快感は素晴らしいものです。手っ取り早く気分をハイにするにはスポーツが一番でしょう。しかも健康にもいいのですから。

 しかし、肉体は疲れてしまいます。たとえば2時間もジョギングをすれば、たいがいの人はへばってしまうでしょう。運動後の疲労の中に充実感はあるにしても、それだけで自由時間を埋めるのは困難です。

 知性の活動は固有の快感をもたらし、無疲労的です。もしこれが本当であれば、知的な趣味に手を出さないのは損というものです。無尽蔵に楽しみを引き出すことができるのですから。


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主体的な機能快の追求

 ドイツの心理学者カール・ビューラーが「機能快」ということをいっています。人間にはさまざまな機能が備わっていて、それを発現させること、使うことが快感なのだ、といいます。子どもが歩くのは、歩くのが義務だからではなく、歩くのが快感だからです。子どもがしゃべるのは、しゃべるのが快感だからです。逆に、その機能が発揮されない状態が続くと不満が鬱積し、心身は病むことになります。(渡部昇一『「人間らしさ」の構造』 参照)


 仕事でも能力は使用されますが、それはごく一部の能力です。

 最近はマニュアル化によって能力の使用が押さえられる傾向にあります。長年培った職人的な能力よりも、誰にでも同じような結果が出せるマニュアルを重視します。熟練労働者をリストラし、安い賃金で雇える若い労働者にマニュアルを与えて、仕事をさせます。そこでは能力の使用が極力抑えられています。とりわけ機械化やIT化とセットになった場合、そこで使用される能力はさらに限定的です。人間はコンピュータの入力係であり、チェック係であり、監視員にすぎません。

 スーパー、コンビニ、キオスクなどにはPOSシステムが導入されています。自分でお客さんの傾向を読み取って、仕入れを考える必要はありません。機械に売れた商品のバーコードを読み取らせ、在庫の商品を読み取らせれば、センターのコンピュータが売り上げの傾向を分析して、適切な仕入れを計画します。人間はコンピュータに仕える僕(しもべ)として働けばいいのです。

 これは極端な例ですが、現代の労働はこのようなコンピュータの付属品的な役割が増えています。

 かつてよくいわれたのは、労働の細分化の問題です。本来ひとまとまりであった労働が分業の効率化のために細分化され、一人が受け持つ仕事が単純作業の繰り返しになってしまい、労働は疎外されて、生きがいが感じられなくなった、といわれました。今ではそれに加えてIT化によってコンピュータの補助的な仕事が増えています。

 仕事には難易度の過不足の問題もあります。能力を使うにしても簡単すぎる作業や課題ならば、退屈をもたらします。かといって、むずかしければプレッシャーとなります。高度すぎて解決できないとか、自分のレベルを超えることが要求されれば、強いプレッシャーとなり、ストレスを生みます。(チクセントミハイ氏のフロー理論を参照)

 能力を使うにも、それが快と感じられるためには、ほどよいレベルというのがあるのです。それは自分の能力をちょっと上回る程度の難しさです。それがもっとも面白く感じられます。

 しかし、仕事の内容がいつも自分の最適なレベルに調整されているわけではありません。往々にして簡単すぎるか難しすぎるかして、労働者に余計なストレスをもたらします。先ほどの「労働者健康状況調査」では、「強い不安、悩み、ストレスがある」の理由として、「仕事の質の問題」をあげている人が30.4%もいました。

 自分が関心が持てる仕事につき、ほどよい量の仕事を任され、さらに最適の難易度の仕事を任されるなどと条件がそろうことは滅多にありません。仕事に機能快や生きがいを求めるのは困難な道だということです。

 それに対して、趣味・道楽は、自分の能力を使用する自由な活動です。仕事では得られない機能快を好きなだけ、最適な難易度で追求できます。仕事で使われない能力や潜在能力を使って、他者からの強制や制限もなく、自己本位に行えるのが道楽の世界です。

 音楽の鑑賞や絵画の鑑賞には享受能力を使用します。スポーツ観戦も読書も同じく、それらを享受する能力が必要です。自ら音楽を作ったり、絵を描いたりするにはさらに創造力が必要ですし、技能の習得も必要です。学問、研究では高い知的能力を使用します。肉体を使った趣味でも同様です。スポーツにはそれにふさわしい身体能力が必要ですし、それなりの知力も必要です。

 人間の能力は多様なので各能力に応じて趣味の分野が存在します。同じような能力を使っても、対象により様々な趣味が生まれます。

 仕事では得られない機能快の追求、しかも自発的で自由な追求が道楽にはあります。

「人間らしさ」の構造 (1977年) (講談社学術文庫)
渡部 昇一


楽しみの社会学
M. チクセントミハイ Mihaly Csikszentmihalyi 今村 浩明

楽しみの社会学
フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR) フロー理論の展開 (Sekaishiso seminar) パワー・オブ・フロー スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ 遊びの現象学
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仕事と道楽は分けて考える

 企業の労務管理や人事管理は巧妙になっていて、本当は会社が管理しているにもかかわらず、さも本人が目標を立てて自己管理しているような体裁をとることがあります。

 たとえば、今月の目標とか本年度の目標を立てる場合、自分が好きなように目標を立てていいわけではありません。実際は前月や前年度を上回る設定にしなければならないのです。10%とか20%とかアップすると目標を立てなければ、やる気がないとして評価を下げます。そもそも上司によって却下されるでしょう。これは強制と同じです。会社が望むような目標を自分から進んで立てるのは、自主性の強要といってもいいでしょう。達成できなければ、もちろん批判されます。自分が立てた計画だろうと責められます。このような理不尽は会社ではままあることです。

 やたらと夢を語る経営者もいます。従業員にはこれは夢を持てる仕事だといい、夢があるのだからと低賃金で働くことを納得させます。夢をかかげていても内実はモチベーション管理と搾取の手法にすぎません。本来自主的であるべきものを強制しておきながら、さも自分から望んだように見せかけるのは、欺瞞というものです。社会学者の本田由紀このようなやりがいや自己実現をえさにして働かせるやり方を「<やりがい>の搾取」と呼んでいます。

 このように企業で働くことは、自主性をモチベーション管理よってうまく絡め取られるような側面があります。ことことは忘れてはなりません。

 最近は、自分の「好き」を仕事にする、などという言い回しが流行っています。そのため若者は自分の適性や興味が仕事に適合することとあわせて、好きな仕事、生きがいのある仕事を求める傾向が強くなっています。

 そのこと自体は悪くはないのですが、本来別のベクトルを向いているものを統合するのはむずかしいということは知っておくべきでしょう。運良く自分の「好き」に関係する仕事に就けたとしても、収入のためにどの程度まで自分を曲げて世間のために他人本位でやるべきかどうかと悩むときもあるでしょう。もともと両立しがたいものを統合しようとしているのですから、当然です。

 「要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります」と漱石は書いています。職業と道楽がどういう関係にあるのかを認識した上で、どこかに妥協点を見いだすしかありません。

 フリーランスやお店の経営も同じです。好きなことの追求と商売がしばしば矛盾します。

 アーティストではさらに先鋭化した形でこの問題があらわれます。自分を曲げて他人本位で作られたアートはアートではない、それは商品ではないかとアーティストは考えます。しかし、売れなければ食べていけません。自分を貫いて、なおかつアートで食べていけることはよほどの幸運です。

 仕事にも、人のためになることや、社会につながるといった面白さがありますが、原則的に他人本位で自分を曲げなければならないことは間違いありません。そして、自己本位の楽しみは趣味・道楽にこそあります。このことは割り切って考えておいた方がよさそうです。そうしないと仕事に過大な要求をして、不満ばかりを募らせることになりかねません。自己本位に追求したいことは仕事とは別にやればいいのです。これもまたB級遊民的な考え方です。

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若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか
本田 由紀
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収入を前提としない自己本位の活動

 では、趣味・道楽とはどんなものでしょうか。その性質について考えてみましょう。

 趣味は、本業ではありません。本業以外の楽しみです。そこにはふたつの意味があります。ひとつは、収入にはならないということ。ふたつめは、楽しみであるということです。

 B級遊民は、必要なだけの仕事もします。それはお金を稼ぐためです。それ以外の時間で趣味を楽しみます。そして趣味は収入にはなりません。趣味と実益を兼ねるといういい方があるように、趣味は収入を前提とはしていません。例外はありますが、原則的に趣味は収入を得ることを前提としない楽しみです。

 趣味には、もうひとつの特性があります。趣味は自己本位だということです。

 職業は他人本位であり、道楽は自己本位であると、夏目漱石は『道楽と職業』の中で書いています。

 分業が進んだ社会においては、仕事とは他人のためにするものです。自分が消費するものを作っているわけではありませんし、自分が受けるサービスを自分で提供しているのでもありません。すべて他人のためです。他人のためになるからこそ、それが社会的な価値=交換価値を有し、現金収入となります。

 だからこそ収入が得られる仕事は他人が気に入るような種類の仕事でなければなりません。他人が望むように働かなくてはならないのです。そうしなければ社会的な価値=交換価値を生み出しません。そこに喜びを見出すこともあるでしょうが、仕事であるからには嫌なことを強いられたりもしますし、自分を曲げなければならないこともあります。理不尽な上司もいれば、理不尽な客もいます。それに耐えるのが仕事というものです。

 「すべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである」と漱石は書きます。仕事が楽しくないのは当然です。

 それに対して趣味・道楽は基本的に自分のためにする活動です。その活動の種類やできばえが他人の気に入らなくてもいい。基本的には自分が楽しければいいのです。誰かに命令されることもなければ、強制されることもありません。もちろん人から評価されればうれしいし、それを励みにすることはあります。しかし、原則として自分が好きでするのが趣味・道楽です。「いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ない」のです。

 しかし、道楽を仕事にしてしまうと、他人本位に行わなければならないのために、楽しい道楽が苦痛になります。「その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括りつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています」(同)

 漱石は、自分が主体となって自分がコントロールできることが面白さには不可欠であると考えています。これは重要なポイントです。仕事であっても、自分が主体となってコントロールできれば面白さを感じやすいのです。主体性、自己管理、自立性といったものが、やる気を引き出します。主体性は生きがい、やりがいの要素です。

私の個人主義 (講談社学術文庫 271)
夏目 漱石
4061582712


私の個人主義ほか (中公クラシックス)
夏目 漱石
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情報処理系講師、フリーライター。減速生活者にしてB級遊民。

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