生きる意味を求める人間に生きる意味を与えなければ絶望してしまうとフランクルはいい、ニーチェの有名な言葉を引用します。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
ここはフランクルの思想の白眉といえる部分です。「生きる意味」についての独自の発想がここにあります。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
すべての状況はたった一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
正直言って私にはわかりづらい考えです。人生が待っているとか人生が問うという表現に違和感を覚えます。いってしまえば、それは擬人化ですから。
確かにある状況においてはある行動をしなければならないということはあるでしょう。しかしそれは常にあるわけではないし、唯一の答えがあるわけでもありません。少なくとも私はそう思います。
なぜフランクルは状況にはなすべきただひとつの答えがあるというのでしょう。理由がわかりません。そういう思想なのだとしかいいようがありません。
このフランクルの発想に共感し、生きる意味を見出す人もいるようです。感動したという意見もよく見ます。しかしそれは一種の信仰です。ある価値や意味を信じることは、論理ではなく、信じるという心情によってのみ支えられています。
フランクルの思想はじつに西洋的です。地上を越えた超越者を想定したような発想が原点にあります。逆に言えば、そういう考え方が自然にできる人でないとついていけないところがあります。
私にはむしろ次のフランクルの独白の方が正直であるように思えます。
解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。
本書を読むと、わからないものに無理やり理屈をつけてしまったような印象を持ちます。その核心部分がまさにその無理な理屈に見えます。
収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。
はからずもこの最後の言葉に彼の発想の原点がどこにあるかが示されています。 「この世には神よりほかに恐れるものはない」。フランクルの実存分析はまさに神のいる思想に属します。
夜と霧 新版池田 香代子
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