地球温暖化でデータ捏造が発覚

 IPCCの科学者のメールがハッカーにより持ち出され公開されました。内容はなんと地球温暖化のデータを捏造したというものです。

 地球温暖化そのものが嘘であるなら、その原因がCO2かどうかなどはどうでもいい話となって、CO2削減をめぐる議論が根底から覆ることになります。


IPCCの「データ捏造」疑惑

これはホッケースティック曲線として知られる、20世紀になって急速に地表の平均気温が上がったとするデータについての議論である。文中のMikeとは、ホッケースティックのデータを発表したMichael Mannのことで、「80年代以降の気温上昇を過大に見せ、60年代からの下降を隠す」工作を行なったことをのべている。ホッケースティックのデータが捏造されたのではないかという疑惑については、全米科学アカデミーが調査し、IPCCの第4次評価報告書からは削除された。このEメールは、捏造疑惑を裏づけるものといえよう。

池田信夫blog&BLOGOS


 地球温暖化の研究およびその対策には多くの予算が組まれ、税金がつぎ込まれています。それも世界的な規模で行われていています。それが嘘であったとなれば、いったいどうなってしまうのでしょうか。すでに世界は地球温暖化対策という方向に動き出しています。どうやって止めるのでしょう。

 日本もCO2・25%削減なんて目標を立てています。本当のところはどうなのか今一度実態の調査をした方がいいんじゃないでしょうか。

 ただ、石油などの化石燃料に限りがあるのは事実です。太陽光発電にシフトする政策の方向性そのものは間違ってはいませんが、その進め方は大きく変えざるを得ないでしょう。

 それにしてもなんでこのニュース、日本では話題になっていないのでしょうか。

テーマ : 環境問題・地球温暖化
ジャンル : ライフ

『外事警察』第2回 女が心の闇をさらけだせば

 いよいよ石田ゆり子が登場。なんとなく男運のない薄幸感を漂わせる女優ですが(別に根拠はありません。私の印象です)、今回は心の闇を抱えた女性を演じます。

 最初、下村愛子(石田ゆり子)は交通事故で美容師の夫を失って、一人でヘアサロンを続けながら、自宅で夫を介護するけなげな女性として登場します。

 しかし、住本(渡部篤郎)は松沢陽菜(尾野真千子)に下村愛子のすべて調べさせ、彼女に捜査協力させるために彼女の闇を暴きたてます。実際には自分の不倫が自動車事故を引き起こし、夫を植物人間にしてしまったのでした。

 だから罪滅ぼしに介護をしている、というストーリーはやはり一面にすぎません。「それは自己満足だ」と住本は下村(石田ゆり子)にいいます。「あなたはいくらでも大それたことができる女だ」とも。

 この女の本性はもっと暗いのだ。欲望が強く、それに引きづられる女だと住本は知っています。そして夫に対するすまなさを感じている裏では、植物状態の夫を介護するというこの状況からどうしても逃れたいと考えているはずだと。

 松沢(尾野真千子)は、住本の挑発的な暴露によって下村愛子の信頼は得られなくなった。協力は得られなくなった と思い、涙を浮かべて住本を責めました。

 しかし、住本は読みはまったく違います。自分の悪をさらけ出されてしまえば、人は開き直るのだと、体裁を捨てて自分の欲望に従って行動するだろうと考えています。こういう女が心の闇をさらけだせばいくらでも大それたことができるはずだ、と。

 そういう気持ちの変化の最初の表れが下村愛子が住本の言い放った「出てけ」です。ここで何かが変わったことを住本は知ります。彼女が協力者になるのは時間の問題だと感じます。

 今回は尾野真千子の演技がよかったです。同情ややましさや悔しさや葛藤や難しい演技を要求される場面が多いのに見事に演じていました。ラストシーンの涙を振り切るシーンも印象的です。

 ストーリーはずぶずぶと深みにはまっていきます。暗い、あまりに暗いこのドラマはどこを目指しているのでしょうか。

テーマ : ドラマ感想
ジャンル : テレビ・ラジオ

映画 『ムーラン・ルージュ』 愛という名のエゴイズム

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 ニコール・キッドマン、ユアン・マクレガー主演のミュージカル映画です。

 娼婦でキャバレーのショーガールであるサティーン(ニコール・キッドマン)に貧乏な作家であるクリスチャン(ユアン・マクレガー)が恋をするという話。

 「この世で一番幸福なのは、愛し愛されること」なんてセリフを繰り返し、オーバーな感情表現に満ちたファンタジーを展開しますが、徹底的にだまされてコケにされるウースター公爵(リチャード・ロクスバーグ)がかわいそう過ぎます。

 だまされ、金を取られ、傷つけられ。クリスチャンを殺したくなるのも当然でしょう。

 最後は主人公サティーンを死なせることでケリをつけましたが、彼女はある意味悪役ですから、こうでもしないとバランスが取れません。

 これがもしサティーンとクリスチャンが結ばれるハッピーエンドなら、エゴイズムの勝利となってしまうところでした。なにしろこの映画は控えめにいっても、愛の映画というよりも愛という名のエゴイズム映画ですから。

 こういう安っぽいお涙頂戴的エンディングを好きな人も多いでしょう。美しい音楽とオーバーな演技で盛り上げ、感動させる要素はいろいろ詰め込まれています。しかし、私はストーリー的に納得できない印象を持ち続けました。

 映像はこってます。演出はしゃれているというよりもふざけていて、やりすぎ感がありますが、世紀末のパリのキャバレーという設定にはあっています。

 音楽は時代設定を完全に無視して、"Your Song"、 "Like a Virgin"、 "Roxanne"なんて曲を使っています。めまぐるしい曲の展開や新しいアレンジに面白さも感じますが、違和感もあります。

 でも、やりきった感はあります。挑戦的なミュージカル映画です。新しい映像体験や不思議な雰囲気に満ちています。そういう点では、ああ、よくやったよね、とほめたくなりました。

 それとユアン・マクレガーの歌がよかったこと。しばしば引き込まれました。これはマクレガーを楽しむ映画かもしれません。キッドマンも色っぽいけど、やはりマクレガーがよかったです。


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『夜と霧』 その3 実存分析は神のいる思想

 生きる意味を求める人間に生きる意味を与えなければ絶望してしまうとフランクルはいい、ニーチェの有名な言葉を引用します。「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。



 ここはフランクルの思想の白眉といえる部分です。「生きる意味」についての独自の発想がここにあります。

もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。



生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。



すべての状況はたった一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。



 正直言って私にはわかりづらい考えです。人生が待っているとか人生が問うという表現に違和感を覚えます。いってしまえば、それは擬人化ですから。

 確かにある状況においてはある行動をしなければならないということはあるでしょう。しかしそれは常にあるわけではないし、唯一の答えがあるわけでもありません。少なくとも私はそう思います。

 なぜフランクルは状況にはなすべきただひとつの答えがあるというのでしょう。理由がわかりません。そういう思想なのだとしかいいようがありません。

 このフランクルの発想に共感し、生きる意味を見出す人もいるようです。感動したという意見もよく見ます。しかしそれは一種の信仰です。ある価値や意味を信じることは、論理ではなく、信じるという心情によってのみ支えられています。

 フランクルの思想はじつに西洋的です。地上を越えた超越者を想定したような発想が原点にあります。逆に言えば、そういう考え方が自然にできる人でないとついていけないところがあります。

 私にはむしろ次のフランクルの独白の方が正直であるように思えます。

解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。



 本書を読むと、わからないものに無理やり理屈をつけてしまったような印象を持ちます。その核心部分がまさにその無理な理屈に見えます。

収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。



 はからずもこの最後の言葉に彼の発想の原点がどこにあるかが示されています。 「この世には神よりほかに恐れるものはない」。フランクルの実存分析はまさに神のいる思想に属します。


夜と霧 新版
池田 香代子
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『夜と霧』 その2 未来を信じることは諸刃の剣

 本書の後半でフランクルは生き残った人はなぜ生き残ったのだろうかとの問いに答えようとします。

 フランクルの答えを平たく表現すれば、絶望しなかった人が生き残った、となります。

 しかし、彼の体験を読めば、そのたび重なる偶然、幸運の連続に驚きます。そして彼自身は保身のためにうまく立ち回りもしました。

 生き残った人は運がよかった。フランクルがこの事実を強調しなかったことはじつに不思議です。

 一方では、運がいいだけで生き残れなかったことも事実です。絶望して死んでいった人もいました。

 感情の消滅とは矛盾しますが、ささやかな美への感動、祈り、ユーモアについても彼は報告しています。絶望をしていない人には、わずかながらも人間的な心は失われてはいなかったのかもしれません。いや、逆にそういう気持ちを持っているからこそ、絶望しにくかったのかもしれません。

 そしてとりわけ重要なことは、未来を信じている間は人は絶望しなかったことでした。

自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。


 
 しかし、未来を信じることは諸刃の剣です。

 たとえば、自分が解放される予言を夢に見た人はその予言の期日が近づき、開放の可能性がないことに気づくと病魔に襲われ、予言された翌日に死にました。クリスマスには収容所が出られるのだとの希望を抱いていた人たちも多くいました。クリスマスが過ぎ、自分たちが開放されないことを知ると、彼らは絶望して死んでいきました。

 絶望をしないためには、裏切られることのないような形で未来を信じる必要があります。たとえば、収容所を出られたらなになにをしよう、というように。

 フランクルはしばしば収容所の体験を多くの聴衆の前で講演する自分の姿を想像しました。この方法は賢明です。いつまでに出られるという期限付きの空想ではなく、期限をきめていないからです。期限を限って、いつまでにここを出られると考えるのは危険です。実現しなければ絶望がやってくるからです。

 (もっともこの空想をもって未来を信じているといえるのかどうか。空想への逃避とも言えなくもありません)

 しかし、あまりにも長く収容所生活が続けば、未来を信じ続けるのも難しくなるのは当然でしょう。うまく自分をだまつづけることにも限界があります。

 (つづく)


夜と霧 新版
池田 香代子
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大学非常勤講師(情報処理)、フリーライター。減速生活者にしてB級遊民。Cozy's 東京スナップの管理人。
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